五島慶太 東急電鉄創業者

実業家

強引な買収による事業拡大から「強盗慶太」の異名を持ち、遠回り、挫折を繰り返しながらも一代で「大東急」を築いた五島慶太。彼がどのような人生を歩んできたのか、人生の岐路を振り返る。

幼少時代

0歳 誕生

  • 五島は、1882年に長野県小県郡青木村で、農家の父小林菊右衛門と母寿ゑの二男として生まれた。
  • 子供の頃の五島は、負けん気の暴れん坊で、村の大事な鎮守の拝殿に大きな落書をしたり、友人の頭に農具の鍬を打込んで大怪我をさせたりしたこともあった。
  • しかしそんなわんぱくぶりとは裏腹に、父菊衛門は熱心な法華経の信者で、朝起きた時や夜寝るときには、南無妙法蓮華経を少なくとも5百から千回ほども唱えていた。
  • 両親の仏教に対する深い信仰の影響を子供ながらに受けた五島は、いかなる苦痛も困難も、お経を唱え信心することで打ち勝つことができるという確信を受けたという。

学生時代

7歳 青木村小学校入学

  • 五島は青木村小学校に入学した。尋常科4年を卒業し、隣村の浦里小学校の高等科に進んだ。

12歳 上田中学校入学

  • 五島の生家は、もとは村一番の富農だったが、父菊右衛門が製糸業に手を出して失敗したことから、貧しかった。そのため、五島は本来であれば他の級友たちと同様、小学校卒業とともに丁稚に出るはずだった。
  • しかし五島は暴れん坊だった割に、中学校に進学して学びたいという気持ちが強かったため、父に頼み込んで上田中学校に通うことになった。
  • 貧しい家庭の懐事情もあり、五島は雨の日も雪の日も、3里離れた上田中学校まで歩いて通い、一度も学校を休まなかった。
  • 中学校の最初の3年間は支校である上田中学校で過ごしたが、4,5年目は県立中学の松本中学に通い、課程を終了した。

社会人と学生を行ったり来たりしていた時代

17歳 青木小学校の代用教員として働く

  • 五島は中学校に通い始めた頃、先生になることを目標としていたが、次第に更に上級の学校へ進学したいと考えるようになった。
  • しかし、苦しい家計の中でそれ以上の学費を親に頼むことはできなかった。
  • 結局五島は、地元の青木小学校で代用教員として働きながら、貯金をして進学の機会を伺うことにした。

20歳 東京高等師範校に入学

  • 代用教員をしていた19歳の夏、五島は初めて上京し、一ツ橋高等商業学校(現一橋大学)を受験したが、落ちてしまった。
  • 仕方なく郷里に戻り代用教員を続けていた五島は、ある日東京高等師範学校(現筑波大学)の募集を見つけた。官費支給だったため学費の面でメリットを感じた五島はこれに応募し、見事入学した。

24歳 四日市商業学校で教員として働く

  • 東京高等氏は大学を出た五島は、その後四日市商業学校で教員として働き始めた。ところが、教育事業そのものには興味をもっていた五島も、一度学校で働いてみると、校長をはじめとして同僚が「いかにも低調で、バカに見え」てしまい、一緒に仕事をすることに嫌気がさしてしまった。
  • そこで、これではいけないと思い、最高学府である東京帝国大学を出て、世の中と勝負してみようと決心し、わずか1年で四日市商業学校を辞めてしまった。

25歳 東京帝国大学に入学

  • 25歳になった五島は、東京帝国大学に入学し、法科大学の本科に進んだ。普通の学生より7年も遅れての入学であった。
  • 元々貯金が少なかった五島は、すぐに学費が足りなくなってしまったため、東京高等師範学校の嘉納校長の紹介で、冨井政章男爵の息子の家庭教師となった。その後は冨井男爵の紹介で、加藤高明の息子厚太郎の家庭教師として加藤邸に同居できることとなり、ようやく生きて行けるだけのお金は手に入るようになった。この頃の家庭教師で培われた人脈は、その後の五島の事業で役に立つことになった。
  • ちなみこの頃の五島は、学生でありながら、吉原や根岸、浅草などの女郎屋などに出入りしていた。

官僚時代

29歳 農商務省、鉄道員の官僚となる

  • 五島は大学を卒業した年に文官試験に合格し、加藤高明の斡旋で農商務省に入った。
  • しかし政府が緊縮政策をとったことで、予定していた仕事がなくなってしまい、鉄道院に移ることとなった。
  • 鉄道院に移って6年が経った頃、五島は「課長心得」という役職になることが決まった。しかしこの役職に不満があった五島は、稟議書にある「心得」の文字を消したうえで認印を押して上に回した。それに気づいた石丸重美次官は、五島の大胆不敵な行動をかえっておもしろがった。稟議書に書かれた「心得」を消すと、五島を本当の課長に昇進させてやった。
  • しかし課長を1年半ほど勤めた後、五島は9年間の役人生活に終止符を打ち、辞めてしまった。色々な遠回りを経てようやく東京帝国大学に入学し、官僚になった五島だったが、彼にとって役人生活は結局退屈であった。

「そもそも官吏というものは、人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いて、ようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならない。若い頃から自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ。これが十年近い官吏生活を経験した私の結論であった」
((1956)「私の履歴書」五島慶太 日本経済新聞出版社)

経営者時代

38歳 武蔵電気鉄道(後の東急電鉄)専務に就任

  • 当時、武蔵電気鉄道という、東京と神奈川を結ぶ鉄道があった。社長の郷誠之助男爵は日比谷-横浜間の鉄道建設を行うために、右腕となる人物を探しており、石丸鉄道次官のところへ相談に行った。
  • すると、石丸次官は「今監督局の総務課長に五島慶太という男がいる。おもしろい奴で、課長心得が気に入らないで、いつも心得という字を消しては判を押してくる」と勧めた。郷男爵もその話を面白がり、五島を気に入った。
  • 五島本人もちょうど官僚を辞めるタイミングだったため、渡りに舟と思い、武蔵電鉄の常務取締役に就任した。

40歳 目蒲電鉄の専務を兼務、のちに武蔵電鉄を合併

  • 当時、渋沢栄一が健康的な田園都市住宅をつくろうとして、田園調布と洗足に四十五万坪の土地を買った。電気、ガス、水道などのインフラとともに、そこへ鉄道を敷こうと考え、目黒から多摩川のふちまでの間に鉄道敷設の免許を得て荏原電気鉄道を創立した。しかし、鉄道事業は専門性が必要で、素人揃いの布陣ではうまくいかなかった。そこで渋沢は、半球の創設者小林一三に相談したが、小林は多忙で断られてしまったため、五島に打診した。
  • 五島は武蔵電鉄の経営に参画していたが、小林から「まずは田園都市計画を実施して四十五万坪の土地を売ってしまい、その資金で武蔵電鉄をやれ」と助言を受け納得したため、まずは目黒蒲田電鉄(目蒲電鉄)の専務を兼務することにした。目蒲電鉄は、阪神大震災をきっかけに住宅を失った人が続々と沿線に集まり、開通後瞬く間に事業が拡大していった。これによって得た資金で、五島は武蔵電鉄の株式の過半数を買収し、社名を東京横浜電鉄に改めた。
  • ところが、昭和初期の財界不況に遭遇し、一気に経営は悪化した。時には社員の給与にも困窮し、十万円の借金をするのに保険会社に軒並み頭を下げて回り、皆断られて小雨の降る日比谷公園をションボリ歩いたこともあった。さすがの五島も、しばしば自殺を考えるほど苦しんだ。目に入る松の枝が全て首つり用に見えるほどに追い詰められていたと言われる。
  • しかし後藤は奮起し、「予算即決算主義」というものを確立して、これをキップ切りにまで徹底させた。「予算即決算主義」とは、年度始めに各部課に予算計画を提出させ、それをもとに予算案を編成するというものだった。今日では各企業が取り入れている予算管理手法だが、当時は新しい概念だった。予算管理を徹底した目黒電鉄は、無事に昭和恐慌を乗り切ることができた。
  • 五島は他の鉄道事業者同様、沿線に娯楽施設や商業施設を作り沿線価値向上につとめた。五島の独創性は、沿線に大学を誘致したことであり、日吉には慶應義塾大学、大岡山には東京工業大学、武蔵小杉には日本医科大学、八雲には東京都立大学を誘致した。学校があることで、人々が住みやすい沿線となり、目黒電鉄は栄えていった。

51歳 選挙資金の不正拠出の疑いで6か月間の獄中生活を送る

  • 当時、東京では市長選挙があり、牛塚虎太郎が市長に選ばれた。ところが、暫くして東京府会の粛正が行われ、府会のメンバーが何人もそろって市ヶ谷刑務所に繋がれる、大疑獄事件が起こった。
  • 五島は池上電鉄を買収する際、川崎財閥の代表川崎肇に手付金として小切手で十万円支払っていたのだが、これが市長選挙に使われたという嫌疑で、市ヶ谷に連行されてしまった。
  • 五島は、第一審では有罪の判決を受けたが、逆に第二審では無罪、その後の検事控訴も上告棄却となり無事無罪放免となった。しかし、この間6か月を獄中で過ごし、五島「人間としての最低生活」と表現するほどひどい時期を過ごした。
  • 五島はこの獄中生活を通じて、人間は知恵と行動だけではだめで、「必ずだれにも負けない」という信念が必要だということを悟った。

51歳 鉄道会社を相次いで買収

  • 五島は事業拡大にも乗り出し、1934年、競合していた池上電気鉄道の株を東京川崎財閥から譲り受け、一夜にして買収を成し遂げた。
  • すると同年、五島は渋谷 – 新橋間に地下鉄を敷設するため、大倉組や東京地下鉄道(現東京地下鉄(東京メトロ)銀座線浅草 – 新橋間を運営)と協力して東京高速鉄道を発足させ、常務に就任した。
  • 1938年には渋谷 – 虎ノ門間を開通させた。しかし、社長の門野重九郎が東京駅までの延伸を主張したのに対し、五島は新橋より東京地下鉄道へ乗り入れ、当時、東京一の繁華街だった上野・浅草への延伸を主張した。この対立に勝つため、五島は1939年、大日本電力(現在の北海道電力)の穴水熊雄社長から東京地下鉄道の株式45万株を譲り受け、東京地下鉄道社長の早川徳次を退陣に追い込んだ。この騒動によって、地下鉄事業に力を尽くした早川を会社から追い出した五島には、世間から大きな非難が向けられた。
  • 五島は、東横百貨店の隣に本社ビルを所有し、1938年には渋谷の開発をめぐり競合関係にあった玉川電気鉄道も東京横浜電鉄に合併させた。
  • 1940年代に入ると、既に五島の経営下にあった京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併し、東京急行電鉄を発足させ、さらに1944年には京王電気軌道を合併。また、相模鉄道など東京西南部全域の私鉄網を傘下に収めた。

52歳 渋谷に東急百貨店を開業

  • 1934年、五島は沿線の人達に「良品を廉価に」提供する目的で東横百貨店を渋谷に作った。
  • 当時、百貨店は呉服が中心だったが、東横は日用品中心の品揃えを展開する点において新しかった。
  • ターミナルであった渋谷駅は当時でも30万人近い乗降客があり、都心に行かずして買い物ができる東横百貨店は人気を呼んだ。
  • この頃五島は、横百貨店の隣に本社ビルを所有し、渋谷の開発をめぐり競合関係にあった玉川電気鉄道を内し買収し、東京横浜電鉄に吸収合併している。
  • 1939年に目黒蒲田電鉄は(旧)東京横浜電鉄を合併し、名称を逆に(新)東京横浜電鉄とした。

56歳 三越に買収を仕掛けるも失敗

  • 当時の三井銀行には、玉川電鉄の株式を五島に譲った前山がいたが、前山の死に伴い、五島には前山が保有していた三越株も買い取らないかと誘いを受けた。
  • 東横百貨店を経営していた五島は、三越と東横百貨店の合併を画策し、株を購入した。
  • しかし当時の三越は慶応閥の牙城で、慶応閥の先輩がまず三井銀行の今井喜三郎氏に泣きついた。そうすると三井銀行は五島に融資しなくなり、やがて三菱銀行も五島に融資をしなくなった。その上、時の蔵相兼商相の池田成彬氏にも呼び出され、三越の合併を止め、株を半分三越の従業員の共済組譲るよう頼まれた。また、鉄道経営において五島の先輩であった小林一三も、できたばかりの東急百貨店が大三越を飲み込むのは土台無理な話だと諭した。
  • こうした事情から、五島は株を手放してしまい、三越の買収は立ち消えとなった。結果は失敗に終わったが、世間は五島を「強盗慶太」として強く認識した。

61歳 東条内閣に入閣

  • 戦時中の1943年、五島は内閣顧問となり、青森から関西の造船所を見て回り報告書を作成した。
  • 翌1944年、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任し、名古屋駅の交通緩和や船員の待遇改善などに貢献した。
  • 経営者のイメージが強い五島だが、戦時中は大臣も歴任するほどの政治家だった。

63歳 公職追放

  • 1947年、東条内閣の閣僚だった五島は、GHQにより公職追放された。
  • しかし、実質的な影響力は失わず、東急が解体されるときも、むしろ自ら企業分割を推奨し大東急再編成の推進役を果たした。

64歳 東京急行電鉄取締役会長に就任し東映を再建

  • 1952年、公職追放から復帰した五島は、東急電鉄の会長に就任した。
  • しかし、この時点で東映は、膨大な借金を抱えていた。
  • そこで五島は、住友銀行の鈴木剛頭取と交渉して融資を引き出した。
  • 東映再建には、東急専務で「経理の専門家」として五島が多大な信頼を寄せていた大川博を社長として派遣し、見事に3年で立ち直らせた。

65歳 強盗慶太、再び

  • 1953年になると、五島は城西南地区開発を発表し、神奈川県北東部を中心とした多摩田園都市開発に着手した。
  • 1955年には白木屋乗っ取りを行った。右翼や総会屋などの激しい妨害に遭ったが、五島はくじけなかった。三越の買収で妨害を受けて失敗した五島は、なんとしてでも一等地に百貨店を建てたいと思い、捲土重来の機会を伺っていたのだ。結局、白木屋の買収に成功し、白木屋に東横百貨店を吸収させる形で合併を果たした。
  • その後、北海道では各地のバス会社を次々買収し開発を進め、伊豆や箱根では西武グループと激しく対立しながらも、地元の交通事業者を買収しながら開発を推し勧めた。

77歳 死去

  • 1959年、五島は東洋精糖買収に乗り出し、熾烈な攻防戦を繰り広げた。しかし、その最中に五島は病没し、東洋精糖株は死後27日目に手放された。
  • 「強盗慶太」の名にふさわしく、事業買収を繰り広げる中で、五島はその息を引き取った。