盛田昭夫とともに、日本を代表するベンチャー企業、ソニーを築き上げた井深大。彼の人生の岐路を振り返る。
幼少時代
0歳 栃木県上都賀郡で誕生
- 井深は、1908年4月、父井深甫(たすく)、母さわの長男として栃木県上都賀
郡日光町字清滝で生まれた。父甫は、東京高等工業学校(現・東京工業大学)の電気化学科を卒業した知識人で、古河鉱業に勤めていた。
3歳頃 幼くして父を亡くし、母と共に愛知県安城町に引っ越す
- 井深の父甫は、将来を期待された技術者だった。しかし、井深がまだ3歳の時に病気にかかってしまい、26歳という若さでこの世を去ってしまった。
- 母と2人取り残された井深は、父甫の両親を頼り、愛知県碧海郡安城町(現・安城市)に移り住んだ。
- 井深と母さわはここで2年ほど暮らした。
5歳頃 東京の目白へ引っ越し、母の英才教育を受ける
- 井深が5歳の時、母さわが日本女子大学附属幼稚園で教師として採用されたため、2人で東京の目白に引っ越した。
- この間、井深は母が務める日本女子大学付属幼稚園へと通った。
- 母さわは当時の日本女子大を出た知識人で、休みごとに井深を博物館や博覧会へ連れて行った。この幼少期の経験が、井深の科学に対する興味の芽生えとなった。
- 井深にとって、母の愛情を受け育った東京での暮らしは、生涯忘れることのできない幸せな時間だった。
学生時代
6歳頃 東京女子大学付属小学校からすぐに北海道苫小牧の小学校に転校
- 井深は、東京女子大学付属小学校にエスカレーター式に進学した。
- しかし、井深が1年生の3学期を迎えた時、母方の祖父が病気になったため、母と北海道の苫小枚に引っ越すことになり、東京での生活は終わった。
7歳頃 母と別れ、愛知県安城町で祖父母と暮らす
- 苫小牧での生活も3か月で終わり、井深は母と2人、父方の祖父母がいる愛知県碧海郡安城町へ戻った。
- しかし、間もなく母は、再婚のため兵庫県神戸市に井深を置いて行ってしまった。
- 祖父母は残された井深を大事に育てたが、井深は寂しさをぬぐいきることはできなかった。
- そんな井深の気をまぎらわしてくれたのが、機械の分解だった。
- この頃、井深は身の回りにあるものを手当たり次第に分解していた。
- ここから始まる分解癖は井深の生涯の習性となり、その経験が、後の技術者・井深の土台ともなった。
11歳頃 母と再び神戸で暮らし始め、諏訪山小学校に通う
- 井深が小学校5年生の時、しっかりと勉強するために、母が住む神戸に引っ越し、諏訪山小学校に転校することになった。
- そこでは、厳しい教育が行われ、それに耐えた井深は、卒業と共に進学校である神戸一中に進学した。
12歳頃 神戸一中に入学し、ラジオに没頭する
- 神戸一中での井深の成績は決して良くなかった。無線の組み立てや機械いじりに没頭してしまったからである。
- この頃、どうしてもラジオが欲しかった井深は、ラジオを自作することにした。
- 真空管を手に入れるため、神戸港に入港する船に無線サービスを提供する日本無線という会社を訪ね、仲良くなった。
- そして、少しずつ小遣いを貯め、そこから真空管を手に入れた。
- 井深は帰宅して真空管を無線機につなげると、やがて無線が入ってきた。
- 中学生の井深は、自作ラジオを見事完成させたのであった。
- まだ神戸でラジオを市販していなかった時代に、こうした井深の行動は、中学生がやるにしては大胆であった。
- しかし、井深にはその大胆な行動力と、周囲が応援したくなる純粋さがあった。
18歳頃 早稲田高等学院でケルセルの研究を行う
- 井深は、官立の浦和高校(現埼玉大学)、北海道大学予科(現北海道大学)、私立の早稲田高等学院(現早稲田大学)の三校を受験したが、官立の2校には色弱が原因で落ちてしまった。
- そうして結局、1927年に早稲田高等学院に入学した。早稲田高等学院を受験した理由は、子供の頃、幼稚園の同級生のお父さんが、理工学部長の山本忠興だったからであった。井深は山本に憧れを持っていた。
- 入学した井深は、山本の影響でクリスチャンとなった。もとより、井深の父も新渡戸稲造の門下生だったため、井深の父がクリスチャンだった可能性もある。
- 井深はクリスチャンとして協会に通い、友愛学舎というキリスト教関係の寄宿舎に入った。そこで、クリスチャン人脈を広げて行った。
- その後、早稲田大学の理工学部に内部進学し、電信、電話など家庭向けの電気機器を扱う弱電を専攻にした。
- 井深は、光を外から加えた電圧通りに変調させる研究である、ケルセルについて研究した。
- 井深はこの頃、学生でありながら、ケルセルについて特許を取得し、それ以外にも特許を取っていた。
- 学生でありながら、優秀な科学者としての頭角を既に現し始めていたのであった。
社会人時代
25歳頃 東芝の入社試験に失敗し、PCLに入社
- 井深は早稲田大学を卒業し、社会人となった。
- しかし、第一希望の東京電気(現東芝)の入社試験には落ちてしまった。
- そんな井深に就職話を持ってきた男がいた。特許庁の審査官だった清水哲である。
- 清水は、井深がケルセルの特許を取った時に手助けをしてくれた男であり、学生ながら特許を取得した井深を高く評価していた。
- 清水の紹介で、井深はPCL(写真化学研究所)に入社した。
- この頃のPCLは映画の撮影と録音をする新興企業であり、後に東宝となった。
25歳頃 PCLで自由な研究者生活を楽しむ
- PCLは井深にとって大変恵まれた研究環境であった。
- 本業では、ケルセルの知識を活かすことができる、録音の研究を行った。
- また、それ以外にも、自由に研究をすることが許された。
- 井深は大学時代に行った「走るネオン」の研究を続けると、1937年のパリ万国博覧会で優秀発明賞を受賞した。
- 井深がここまで自由に研究をできたのは、所長の植村泰二の影響が大きかった。
- 植村は、入社したばかりの井深を一人前として扱い、技師長が集まる技術会議に出席することを許した。
- そして、業務と関係のない研究をしていても、咎めなかった。
- 植村は、研究は私利私欲のために行ってはならず、国家や人類進歩のために役立てないと考えていた。
- 井深は駆け出しの研究者の時代に触れた植村所長に大きな影響を受けることとなった。
- 井深はソニーを立ち上げても、若い社員にどんどん責任ある仕事を任せ、新入社員にも声を傾けた。
- それは、この頃に植村所長から受けた薫陶が影響していたに違いない。
- 井深の仕事ぶりは高く評価され給料は月ごとに上がっていき、井深はこの給料をカメラやクルマなど、高価な機械にどんどんつぎ込んでいった。
- この頃の井深は、クルマを買ったうれしさのあまり、用もないのにあちこちへドライブに出かけていた。
28歳頃 前田多門の娘の勢喜子と見合い結婚
- 1936年、井深は知人の紹介で前田勢喜子とお見合いをした。
- 前田勢喜子の父は、前田多門であった。
- 前田多門は、東京帝国大学、内務省を経て、その時は朝日新聞の論説委員をやっていたエリートであり、新渡戸稲造の門下生だった。
- 井深は、勢喜子以上に多門に惹かれ、色々学びたいと考え、結婚を承諾した。
32歳頃 日本測定器の常務に就任
- 新しいことをやりたかった井深は、1940年、植村を社長として、早稲田大学時代の仲間と共に、従業員30人の日本測定器を創業した。この時、井深は常務に就任している。
- この日本測定器時代に、「機械と電気を合わせて仕事をする」という井深のスタンスが確立されたと言われている。
37歳頃 戦時下で、盛田昭夫に出会う
- 1945年、井深は日本軍の科学技術研究会で、海軍中尉になったばかりの盛田昭夫と出会った。
- 新兵器の開発について議論する場で、井深を含めて年長の技術者たちは侃々諤々の議論を行った。
- この時、盛田はまだ24歳だったが、臆することなく、議論に加わっていった。
- この時から、井深は盛田を気に入り、盛田も、井深を気に入った。
- 井深は、最年少でありながら年長の技術者に交じって議論をする盛田を、若い頃PLCで同じようにしていた自分と重ね合わせていたのかもしれない。
「私と盛田君は年こそ10年もの違いがあるが、二人はそのころからよくウマがあった。盛田君は阪大理学部出身のすぐれた技術将校だったが、そうした彼の供用に私の心を動かすものがあり、熱線爆弾の研究を通して心と心の結びつきを深めていった」
(一條和夫「井深大 人間の幸福を求めた創造と挑戦」PHP研究所、2017)
「はじめからたいへん気が合い、ここでの出会いが縁で、彼は私の生涯の先輩、同僚、相棒、そしてソニー株式会社を一緒に設立するパートナーになった」
(森健二「ソニー 盛田昭夫 “時代の才能”を本気にさせたリーダー」ダイヤモンド社、2016)
- 井深は、義父の前田多門から戦局に関する情報を貰っており、日本が戦争に負けることをわかっていた。
- 海軍中尉の盛田もまた、日本の敗戦を予想していた。
- 終戦の一週間前、空襲を避け長野県に移っていた井深を、盛田が訪ねた。
- そこで二人は、戦争に負けた後に何をしようかと、一晩語り明かした。
経営者時代
37歳頃 東京通信研究所を設立
- 終戦後間もない1945年9月に、井深は7人の仲間と共に東京に戻り、日本橋白木屋の3階に「東京通信研究所」の看板を掲げた。
- 井深は人生が50年しかないと考えていたため、37歳の当時、もう時間がないと思っていた。
- 事業として何をするか、色々なアイデアが出たが、電気炊飯器を作ることにした。
- しかしこれは失敗に終わり、ソニーの記念すべき失敗第一号となった。
38歳頃 盛田昭夫とともに東京通信工業(現ソニー)を設立
- 1945年10月、東京通信研究所が開発した短波受信アダプターが朝日新聞に掲載されると、偶然盛田の目に留まった。
- 興奮した盛田は早速井深に手紙を書き、上京した。
- 元々盛田は東工大で講師をするために上京したのだが、井深との話し合いの末、1946年3月に二人は共同で東京通信工業(現ソニー)を設立した。
- 盛田は350年以上続く酒造業の長男であったため、その説得のため、盛田、井深と前田多門の3人で愛知県まで説得に当たり、許しを得た。
- 東京通信工業は、社長が前田、専務が井深、常務が盛田だった。
- 前田は衆議院議員、文相も務めた経験を持っていたため、その人脈は創業間もないソニーにとって強力な助けとなった。
- この頃の井深、盛田は、経営者の傍ら雑務にも追われ、闇市まで小型トラックを運転し、工場で使うための道具や材料を買ったり、配送品の配達まで行っていた。
- 1946年には、品川の御殿山に工場を借りることができた。床はガタガタ、屋根は隙間だらけで、雨が降ると傘をささなければいけなかった。
- しかし、井深も盛田も、従業員がまとまって働けることが嬉しかった。
- 東京通信工業は、まさに生まれたばかりのベンチャーであった。
42歳頃 日本初のテープレコーダー「G型」を発売
- 1950年、東京通信工業は、日本初のテープレコーダー「G型」を開発した。
- 遡ること1年前の1949年、井深はNHKで、アメリカ製のテープレコーダーを見て、自社が作るべきはこれしかないと直感した。
- さらに、井深は、テープレコーダーだけでなく、それに入れる録音テープも販売したほうが、儲かると考えた。
- その後、1年間の厳しい試行錯誤を重ね、テープレコーダーと、録音テープが完成した。
- テープレコーダーというハードウェアと、それに付随する録音テープといういわばソフトウェアを組み合わせる、ソニーのビジネスモデルがこの時すでに芽生えていた。
- しかし「G型」は、あまりに高価格かつ大型だった。官庁では前田の口添えもあり採用されたが、一般に浸透しなかった。
- そこで翌年にはより小型で半額の「H型」を発売。全国の教育現場でマーケティングを行うと、教育市場でも取り入れられるようになった。
47歳頃 日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売
- 1952年、海外市場開拓のため、井深は米国を視察した。
- 主目的だったテープレコーダーの利用実態を調査しながら、井深はまだ開発されたばかりのトランジスタの存在を知った。
- 井深は、トランジスタを何に使うかの具体的なアイデアはなかったが、科学技術の画期的進歩を象徴するものだと思い、自社で開発したいと考えるようになった。
- そこで、1953年にはウエスタン・エレクトリック社に特許料を支払い、製造許可を得た。
- しかし、まだ小さな町工場の東京通信工業に、その製造方法がわかるはずもなかった。
- 開発は難航した。井深はラジオ用に高周波のランジスタを作りたいと思っていたが、それは当時日本より進んでいた米国でさえ諦められていたことだった。
- 高周波にすると歩留まりが悪く使い物にならないとされていたためだ。
- 井深は、時折、あまりに無謀な挑戦だったのではないかと、反省することがあった。
- しかし、難しいからこそやる価値があると、自らを奮い立たせて、開発に取り組んだ。
- その結果、トランジスタラジオは完成した。
- 果たして、歩留まり率は極めて悪く、100個作って5個しか完成品ができないほどだった。
- それでも、井深は商品化を進めた。1955年、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」は発売された。
- 「TR-55」は、早速盛田が北米で10万台の発注を受けたが、「SONY」ブランドを使えず相手ブランドでの販売という条件が気に入らず、断ってしまった。
- 結局、売上への貢献は後継の「TR-63」が担うことになった。折しも一人一台ラジオを持つ世の中になってきたこともあり国内販売は順調だった。
- さらに、海外でも評価された「TR-63」は、海外に輸出された。
50歳頃 社名をソニー株式会社に変更し、東京証券取引所に上場
- 1958年、井深は社名をソニー株式会社に変更し、東京証券取引所に上場した。
- ソニーの名前の由来は、「音」である「SONIC」の語源となったラテン語「SONUS」と、「小さい」「坊や」を意味する可愛らしい「SONNY」を組み合わせてできた。
60歳頃 トリニトロン・カラーテレビを発売
- 1968年、井深は、ソニー最大のイノベーションともいわれるトリニトロン・カラーテレビを発売した。
- しかし、それに至るまでには、会社存亡の危機を乗り越えなくてはならなかった。
- トリニトロンの前に、井深はクロマトロン方式テレビの開発を行っていた。
- しかし、あまりの難しさから、開発に丸3年もかかったうえ、生産歩留まりも極めて悪く、19万8千円で販売する一方、生産コストは45万円から50万円もかかっていた。
- 作れば作るほど利益が減るクロマトロン方式のテレビは、1万3千台で打ち切られた。
- ソニーの財務諸表は大きく痛み、株式会社となっていたソニーでは、井深が責任を取って辞めざるを得ないような雰囲気すら漂っていた。開発期間がトランジスタラジオで誰もが無謀だと思ったことを成し遂げた井深は、やる気になればなんでもできるという思いを持っていた。
- テレビをやるなら、当時各社が採用していたシャドーマスクを採用する方法もあった。
- しかし、井深は、ソニーにしかできないことをやらなければいけないと、自らを奮い立たせた。
- そんな折、GEが新しく開発したポルタカラー方式を知った井深は、これを取り入れることにした。
- しかし、GEの方式では、ブラウン管の大型には適さなかったため、一本の電子銃で赤、青、緑の三原色の電子ビームを出すという斬新な手法を取り入れた。
- すると、これまで見た子もない美しい色、明るい画面が映った。
- 井深はこうして完成したテレビを、キリスト教で三位一体を意味する「トリニティ」と「エレクトロン」を組み合わせて「トリニトロン」と名付けた。
- 1968年、トリニトロンの試作機しかできていなかったが、プレス発表会で、井深は半年後に発売をするといきなり宣言した。
- 常識では考えられないスケジュールだった。しかし、井深はトランジスタラジオから、今回のトリニトロンまで、無謀な挑戦を続けては、成功し続けた。
- その下で経験を積んでいた生産現場は奮起し、1968年10月、井深の宣言通りにトリニトロンは発売された。
- 結局トリニトロンは1年で17万台を販売する大ヒットとなった。
63歳頃 社長を盛田昭夫に譲り、代表取締役会長に就任
- 自らの集大成とも言えるトリニトロンテレビを大成功させた井深は、1971年に社長を盛田昭夫に譲り、自らは代表取締役会長に退いた。
- 以後は、第一線から徐々に退くようになった。
71歳頃 ウォークマンを発売
- 1978年のある日、井深は携帯用ステレオ・テープレコーダーとヘッドフォンを持って盛田の部屋を訪れた。
- そこで井深は、携帯用ステレオ・テープレコーダーとヘッドフォンを持ち歩いているが、重くてかなわないと盛田に相談した。
- そのアイデアに触発された盛田は早速エンジニアに、録音機能のないテープレコーダーを作らせた。
- 開発部門も販売部門も、録音機能がないテープレコーダーなど売れるはずがないと難色を示した。
- しかし、盛田は、これが絶対に成功すると確信していた。
- 果たして1979年に販売すると、爆発的なヒットとなった。
- 井深は、70歳を過ぎ、ソニーの第一線を退いてなお、世界を変えるイノベーティブな製品を盛田と共に世の中に送り出したのであった。