孫正義 ソフトバンク創業者

実業家

ソフトバンクを一代で築き上げた孫正義。彼の人生の岐路を振り返る。

幼少時代

0歳 佐賀県鳥栖市で出生

  • 孫は、在日韓国人実業家の元に長男として生まれ、安本正義という通名で生活を始めた。
  • 幼い頃は佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落で過ごし、貧しい集落で孫の家庭もそのうちの一つだったが、実業家の父が行っていた密造酒とパチンコ業が好調になると、裕福な家庭環境に変化した。

学生時代

 北九州市立引野小学校入学

  • 孫は、小学生時代から父親の実業を傍らで眺め、ビジネスの才格を磨いていた。
  • 父が経営する喫茶店の集客が芳しくないときに、無料のコーヒー券を配ることを提案した。
  • これは今でいうバイラルマーケティングであり、コーヒーを無料にすることで集客のきっかけを作り、来店した顧客がコーヒー以外の商品を注文をすることで収支を合わせられるという考え方だった。

16歳頃 久留米大学附設高等学校入学

  • 孫は、幼いころに父から在日として生まれたお前は人よりも努力しなければならないと言われていたため、難関校である久留米大附設高等学校に入学した。
  • ある時、司馬遼太郎の著書「龍馬がゆく」を読み、人生観が一気に変わる。
  • 坂本龍馬が日本を飛び出しアメリカに向かい、それまでの日本にない価値観を享受して戻ってきたことや、その冒険心に惹かれたのだろう。
  • 孫は、すぐにアメリカに行くことを決意する。

 米国カリフォルニア州で4週間の語学研修

  • 孫は、アメリカで約1ヵ月の語学研修プログラムに参加した。
  • わずか1ヵ月の短期ではあったが、孫はこれまでにない衝撃を受けていた。

他民族国家アメリカ社会の差別のない、世界で文明が最も発達した、一言でいうと輝いている国の自由闊達な生活スタイルに感動し、何か新しいものが生まれてくるとするとこの国ではないか、もっと深く知りたい、と、ますます引きつけられた
(出典)「ソフトバンク 孫正義物語」梶谷通稔 arp co.,ltd

17歳頃 日本の高校を中退し、渡米

  • 孫は、アメリカでの体験が忘れられず、日本の高校を自主退学し、渡米することを決意する。
  • 母親は孫が日本を離れることを悲しみ、父は孫の出発直前に倒れてしまった。それでも、孫のアメリカへ行くという決意は全くぶれることはなかった。
  • アメリカで大きく成長したい、自分がやらなければならないことを貫きたい、その一心だった。
  • 渡米に先立って、孫はアメリカのマクドナルドを日本に持ち込んだ藤田田と連絡を取りたいと思い始める。
  • 孫は元々藤田の著書『ユダヤの商法―世界経済を動かす』を読んで感動していたのだった。
  • 孫は、面会するために何度も藤田の会社に足を運び、門前払いを何度か受けた後に会社側が根負けした社長室に通された。
  • そして、アメリカに行って何を学ぶべきかを藤田に尋ねた。答えは「コンピューター関連」だった。

 サンフランシスコのセラモンテ高等学校第2学年に編入学

  • 孫は渡米後、ホーリー・ネームズ・カレッジの英語学習クラスに入学し、基礎的な英語能力を身に付けた後現地の高校の第2学年に編入した。

 高校を3週間で退学、翌1975年にホーリー・ネームズ・カレッジに入学

  • 孫は、高校入学後すぐに米国の高校卒業検定試験に合格したため、現地のカレッジに入学した。
  • アメリカでは、カレッジで2年過ごし、その後有名な大学の編入試験を受けて編入するというのが一般的であり、孫もこのシステムにのった形だった。

20歳頃 カリフォルニア大学バークレー校経済学部に編入学

  • 孫は、編入試験をクリアし、名門カリフォルニア大学バークレー校に入学した。
  • しかし、実際の大学編入試験では試験に際し大学側と前代未聞の交渉を行っていた。
  • 孫は、問題が日本語だったら必ず解けるが、英語が故に解けないため辞書を使わせて欲しい、また試験時間を自分だけ延長させて欲しいと直談判したのだった。
  • この孫の提案は、その場にいた試験官だけでは判断ができなかったため、州知事の判断まで至ることになった。
  • 州知事の判断は、「辞書を引くのに適当な時間だけ延長する」という内容だった。孫は、無制限の時間延長が認められたと認識し、問題が解き終わる最後までテストを受けて合格。晴れて大学3年次に編入学を果たした。

 シャープに自動翻訳機を売り込み1億6000万円を得る

  • 孫は、大学では経済学を専攻したが、藤田田の教え通り、授業ではIBMなどの大型コンピュータのプログラミングを授業を選択していた。
  • 授業などで知り合った大学の教授たちに「僕の元で働きませんか?」と声をかけ、時給制で給料を支払い自動翻訳機を開発を試みた。
  • 孫は、周囲には自分よりも頭が良い人がいることに気づき、全てを自分でこなすより、賢い人達に頼った方が良いという考え方をこの時に気づいていたという。
  • 結果的に、孫は、当時シャープに在籍していた佐々木の元へ行き、自動翻訳機を見事1億6000万円で売却に成功し、その後の企業資金を作った。
  • この頃から孫は、「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ」という壮大な志をかかげていた。

22歳頃 ソフトウェア開発会社Unison World設立

  • 孫は、自動翻訳機で得た軍資金を元に、当時日本でブームが下火になっていたインベーダーゲーム機を日本から輸入し、米国で販売する事業を行った。

23歳頃 大学卒業後、日本へ帰国

経営者時代

23歳頃 日本ユニソン・ワールドを設立し、社長就任

  • 孫は、ソフトバンク設立の1年前にユニソン・ワールドの日本版を博多区雑餉隈で創業する。
  • 日本で初めて会社を興す際、孫は銀行に1億円を借りに行った。
  • どういう経験があるか?なんの担保があるのか等矢継ぎ早に質問が飛んできた。孫は、質問に対して嘘だけはつかないと決めていた。
  • 結果的に、「お客さんはほとんどいません。日本で事業を始めたばかりだから経験も担保もありません。伝票の書き方も知りません。保証人、僕の一生の方針として、誰かに頭を下げて保証人を頼むということはしません。」と答えた。
  • 孫は、これに加えて、「一番安い金利、プライムレートでしか借りない」と言い切った。当時まだ20代の若造が、無茶苦茶な要望を突きつけるため、銀行の支店長は最終的に笑っていたという。
  • 最終的に融資の判断は本店まで上げられた上、自動翻訳機を買ったシャープの佐々木氏からの後押しがあり担保・保証金無しでの1億円の融資が決定した。
  • 始めは孫とアルバイト2人で事業を始め、「デジタル革命を起こすんだ!」と息巻いたが、アルバイトは困惑した表情だった。
  • 本業は、コンピュータの卸売事業で、米国で行っていたインベーダーゲームの成功事例を今度は逆輸入してきた形だった。

24歳頃 日本ソフトバンク設立

  • 1981年、日本ユニソン・ワールドと経営総合研究所と共同出資で日本ソフトバンクを設立。
  • ソフトバンクの社名の由来には、孫が重要視している他社との協力による知恵の集合体という意味合いが込められている。

26歳頃 慢性肝炎での社長職を退き、会長に就任

  • 肝硬変の直前の慢性肝炎で余命5年を宣告されてしまう。それでも、入院中も毎週病院を抜け出して会社に足を運んでいた。

まあ、泣きましたね。本当に心の底から泣きました。病院のベッドで、一人でいると、やっぱりいろんなことを思うんですよね。
なんで俺なんだ、と。なんで俺がこの若さで肝臓を患うんだ、と。3年半は入退院を繰り返しました。怖くて悲しかった。絶望しました。
そういう中でつくづく考えました。何のための人生か、何のための会社か。
(省略)
その時に、私が心の底から思ったのは、見栄とか、格好とか、大義名分とか、社会的に形式張ったこと、そんなものはどうでもいいと。本音でいらないと思いましたね。では、自分は何があったら幸せかというと、生まれたばかりの娘や家族の笑顔をみること。もうそれだけで幸せだと思いました。そのためなら残りの人生を捧げたいと思いました。
(出典)「就活生よ、君たちはどう生きるか」でのスピーチ

29歳頃 社長復帰

37歳頃 ソフトバンクを証券市場に株式公開

39歳頃 ヤフージャパン設立

  • 孫は、シリコンバレーで従業員が1桁代のヤフーと出会う。
  • ヤフーが目指していたの、生まれたばかりのインターネットに入り口を作る検索ポータルサイトだった。
  • 当時インターネットの普及を確信していた孫は、創業者のヤンと意気投合し、即座にヤフーへの出資とヤフージャパん設立が決まった。
  • 孫が見込んだヤフーの企業価値を200億円は、数年で10兆円を突破することになる。
  • 孫はその後、アリババのジャック・マーと会い意気投合し、独断と即決により出資が決まり、大きなリターンを得ることになるがその前例がこのヤフーへの出資だった。

 ナスダック・ジャパン(現:ジャスダック)を設立

  • 孫は、ソフトバンクと米ナスダック社共同折半出資により、ナスダック・ジャパンを設立する。
  • ナスダックジャパンはその後、ヘラクレス等と合併の末にジャスダックへと変化する。

42歳頃 NTTドコモのアドバイザリーを務める

  • NTTドコモの経営陣は、孫の活躍と先端ビジネスへの知見をを借りようとアドバイザーを依頼し、孫はこれを引き受けた。
  • しかし、孫は翌年、辞めさせてほしいと申し出る。
  • なぜ孫さんは辞めるんだ?と周囲は疑問を持ったが、理由は翌年判明した。ソフトバンクが通信事業に参入するからだった。

43歳頃 ジャック・マーに惚れ込みアリババに20億円出資

  • 孫は、インターネットの普及はアメリカ、日本に次いで中国で普及すると踏んでいた。
  • そこで、中国を訪れスタートアップ経営者と会い、有望な会社があれば出資しようと考えていた。
  • そこにアリババの経営者ジャック・マーが現れた。孫は、10秒ほどの会話で出資を決意したという。
  • 理由は、マーは金の話ではなく、自分が実現したい信念や理念を語ったからだった。
  • 当時アリババは既に他社から5億円の出資を取り付けており、もう出資してもらう必要がない状況だったため、マーは孫が提示した50億円を断った。
  • これに対し孫は、40億円、20億円と出資金額を逆に下げていき、何とかアリババへの出資機会を得た。

44歳頃 Yahoo!BBを開始し、事業の変換を開始

  • 孫は、ブロードバンド通信への参入を発表。これを機にインターネット通信業を始める。
  • ADSLモデムを無料で顧客に配布するという、幼少期にコーヒーの無料券を配ったのと同様の戦略を敷いた。
  • モデムは、原価数万円するため、ソフトバンクは毎年数千億円の赤字を垂れ流したものの、インターネットの普及こそがその後のソフトバンクの成長を主導すると考えていたがゆえの策だった。
  • このタイミングから、ソフトバンクは本業をPCソフトの卸売業から通信業に変換し始める。

僕が言いたいのは、自慢ではなく、未練なく“切り替える”ということの重要性です。かつては誰もが使ったフロッピーディスクやなじみのあるパソコンのキーボードに固執するのではなく、技術の変化とともにビジネスモデルを変えていく必要があるということなのです。古いやり方にこだわりを持たない、ということです。
(出典)「巡航速度で飛ぶなんて興味ない。30年連続で2ケタ成長する!」週刊ダイヤモンド7月24日

47歳頃 日本テレコムを買収し、携帯通信事業に参入

  • 当時、英ボーダフォンが日本テレコムの経営権を握っており、日本で携帯通信事業を行っていた。
  • そこに目を付けた孫正義は、日本テレコムの固定通信事業を買収した後、次いで携帯通信事業を買収し、ソフトバンクの本業を本格的な通信会社に完全変貌させた。

47歳頃 プロ野球に参入表明。ソフトバンクホークス設立

  • ダイエーから200億円で、プロ野球団を買収した。
  • 当時、ライブドアや楽天を筆頭にインターネット関連各社は、プロ野球団を買収することで、その知名度と信頼性を高めようとしていた。
  • 孫もまた、通信会社として後発の穴埋めをプロ野球団買収で補おうとしていた。
  • 自社の知名度が上がれば、本業における顧客獲得コストが下がるため、プロ野球団の買収金額は非常にお買い得だとの認識があったのだった。

その後

  • 孫は、その後、米国スプリントや英国アームなどの大型を買収を経て、携帯事業を分社化。
  • ソフトバンクビジョンファンドを設立し、ベンチャー企業への投資を積極的に主導している。