野口英世 細菌学者

医師

貧しい農家に生まれ、医学部へ行けず、左手は不自由、恋も成就せず  ー 数々の挫折を常人離れした努力とバイタリティで跳ね返し、細菌学者として名を遺した野口英世。彼の人生を振り返る。

幼少時代

0歳 福島県三ツ和村三城潟で生まれる

  • 野口は、1876年、福島県三ツ和村で父佐代助と母シカの間に生まれ、清作と名付けられた。
  • 生家は、貧しい農家だった。

1歳半頃 左手に大やけどを負い、生涯不自由になる

  • 野口が1歳半の時、母シカがちょっと目を離したすきに、野口はいろりに自ら落ちてしまい、左手に大やけどを負ってしまった。
  • このやけどによって野口の左手は指同士がひっつき、こわばってしまった。
  • 母シカはこのことを大いに悔やみ、その後は野口を大事に育てた。6歳になるまで野口を抱いて寝るほどだったと言われている。

学生時代

6歳頃 三ツ和小学校に入学、「手ん棒」とからかわれるが成績優秀

  • 野口は、地元の三ツ和小学校に入学した。
  • 左手が不自由だったため、同級生からは「手ん棒」と言ってからかわれた。
  • そのため野口は学校に行きたくなくなったが、母シカは野口をよく褒めて、優しく育てたため野口は学校に通った。
  • 野口は努力して勉強したため、成績は優秀だった。

13歳頃 恩師がお金を工面してくれ猪苗代高等小学校に入学

  • 1889年、卒業試験の試験官として小林栄という人物が三ツ和小学校を訪れた。
  • その際、小林は野口の非凡な才能を見いだし高等小学校への進学を強く勧めた。
  • 野口は貧しい農家に生まれていたため、まさか自分が進学できるとは考えてもいなかった。
  • 小林の厚意で、野口は奨学金を得ることができ、猪苗代高等小学校に入学した。野口は一日も休まず通い、寝る間も惜しんで勉強したため、常に成績は一番だった。

16歳頃 左手の手術を受ける

  • 野口は在学中に、自分の不自由な左手に関する作文を書いた。
  • すると、それが先生や級友たちの胸を打ち、野口の左手を手術するためのカンパが行われるようになった。
  • 学校の校長先生の月給が十円の時代にあって、カンパは十数円にも及び、野口は会津若松にいた、米国帰りの渡部医師の執刀を受け、左手の指が切り離された。

17歳頃 高等小学校卒業、渡部医師に弟子入り

  • 野口は高等小学校の終わりごろから、医者になりたいと考えるようになった。自分自身が生まれて間もなく左手に障害を負い、それを医学によって救われた身であるため、自然なことだったのかもしれない。
  • しかし、野口がいかに優秀な成績を持っていても、中学、旧制高等学校、さらに医学部に進学するための経済的な負担はあまりに大きかった。
  • そこで、恩師小林の助言を受け、野口は、左手を執刀してくれた渡部医師に弟子入りしたいと相談に行った。すると、渡部医師は快く受け入れてくれた。
  • こうして、野口は猪苗代高等小学校を卒業すると渡部医師が院長を務める会陽医院の書生となった。
  • そこでは、医学と、医学書を読むために必要な英語、仏語、独語を学んだ。野口はここでも寝る間を惜しんで学び、さまざまな知識をあっという間に習得していった。

17歳頃 高等小学校卒業、渡部医師に弟子入り

  • 野口は高等小学校の終わりごろから、医者になりたいと考えるようになった。
  • 自分自身が生まれて間もなく左手に障害を負い、それを医学によって救われた身であるため、自然な考えともいえた。
  • しかし、野口がいかに優秀な成績を持っていても、中学、旧制高等学校、さらに医学部に進学するには、あまりに経済的な負担が大きすぎた。
  • そこで、恩師小林の助言を受け、野口は、左手を執刀してくれた渡部医師に弟子入りしたいと相談に行くと、渡部医師は快く受け入れてくれた。
  • こうして、野口は1893年から、猪苗代高等小学校を卒業すると渡部医師が院長を務める会陽医院の書生となった。
  • そこでは、医学と、医学書を読むために必要な英語、仏語、独語を学んだ。野口はここでも寝る間を惜しんで学び、すぐに外国語を習得していった。

20歳頃 上京し医師試験に合格

  • 渡部医師のもとで勉強に励んだ野口は、1896年に上京し、翌年の試験に合格して医師資格を取得した。
  • 進学せずに医師試験に挑み、合格することは極めてまれだった。
  • なお、野口は、上京に当たって、恩師の小林をはじめとする人々から40円(現在の価値で80万円ほど)もの資金を餞別としてもらいながら、上京すると、ギャンブル、女遊びなどであっという間に使い果たしてしまった。
  • その後も、友人の血脇守之助に頼り多額の援助をして貰うなど、金銭感覚は破綻していた。

20歳頃 自分と似た名前の人物が登場する本に嫌気がさし改名

  • 上京し自堕落な生活を送っていた野口はこの頃、 「当世書生気質」という医学生を主人公にした小説を読んだ。
  • その本の主人公の名前は「野々口精作」といい、野口清作(野口の元々の名前)という名前に、 非常に似ていた。
  • また、その主人公の自堕落な生活が野口と重なることもあったため、それに嫌気がさし、名前を英世へと改名した。

医師として働いた時代

22歳頃 伝染病研究所で活躍する

  • 野口は1897年に順天堂医院で勤務すると、翌年には北里柴三郎が所長を務める名門の伝染病研究所の助手となった。
  • そこでは、来日中だったシモン・フレキスナー 博士と知り合うことができた。
  • また、当時ペストが流行していたため、横浜の海港検疫所に派遣された野口は、ペスト患者を発見し、隔離するなどの実績を作ると、 中国に渡りペスト対策の医師団の一員として活躍した。
  • しかし放蕩癖は相変わらずで、中国へ渡る支度金96円を放蕩で使い果たしたため、またもや資金を血脇に工面してもらいようやく渡航した。

23頃 恋焦がれた山内ヨネに失恋

  • 渡部医師のもとで書生をしていた頃、野口はフランス語を習っていた天主教会堂で6歳年下の山内ヨネと出会い、ひとめぼれした。
  • そこでは、ヨネに何度も難解な恋文を書いたため天主教会堂の牧師に怒られたが、野口は諦めなかった。
  • 野口が上京した後、ヨネも偶然医学の道を目指して上京したことから、野口の再アプローチが始まった。一緒に散歩しようと誘っても、写真を欲しいと言っても、ヨネには断られ続けたが、野口はめげなかった。
  • ある時、野口とヨネの名前を刻んだペアリングを勝手に作って贈ってみたが、それでもヨネを射止めることはできなかった。
  • ある日野口は、ヨネが医師資格を取得して地元で開業し、森川医師と結婚したことをヨネのいとこからの手紙で知った。野口は「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え」と返信し、長く続いた片思いに終止符を打った。

海外で蛇毒の研究をしていた時代

24歳頃 結婚詐欺まがいのことをして留学

  • 野口は、海外で学びたいという気持ちが強かった。外国語に堪能だったことや、日本で学閥に入れなかったことも影響しているかもしれない。
  • 中国で国際的な業務経験を積んだことを契機に、野口は伝染病研究所で知り合ったフレキスナー博士に手紙を書き、留学したい旨を伝えた。しかし、資金が足りず一度挫折している。かなりの高給を知らわれていたにもかかわらず、放蕩し使い果たしてしまったためであった。
  • そんな野口は、箱根の温泉地で知り合った医師を志す女学生・斉藤ます子と知り合うと婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当て、アメリカへ渡航した。しかし、野口の心は斉藤ます子の元にはなく、5年後に、結婚持参金300円を返済し、婚約を解消した。しかも、返済したのはまたもや血脇であった。
  • 当時すでに世界的な偉人であった北里柴三郎の紹介状を頼りに、フレクスナーの元でペンシルベニア大学医学部助手となり、蛇毒の研究を行った。研究成果は論文にまとめられ、評価された。

27歳頃 コペンハーゲン留学

  • 野口は1903年から1年間、デンマークのコペンハーゲンにある、カーネギー大学のマドセン博士の元で留学し、血清学の研究を行った。

28歳頃 ニューヨークのロックフェラー研究所に勤める

  • 野口は翌年米国に戻ると、ロックフェラー医学研究所の一等助手となった。

海外で梅毒の研究をしていた時代

34歳頃 病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功と発表

  • 1911年、野口は「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界に名を知られることとなった。
  • この時、京都帝国大学病理学教室に論文を提出し、医学博士の学位を授与された。

34歳頃 メリー・ダージスと結婚

  • 1911年、野口は同い年のアメリカ人女性、メリー・ダージスと結婚した。

37歳頃 ノーベル医学賞候補になる

  • 1913年、野口は進行性麻痺及び脊髄癆患者の脳中にスピロヘータ・パリーダの存在を証明した。
  • この功績によって、様々な国々から勲章が贈られた。
  • 1914年、東京大学からも医学博士号を授与された野口は、その年のノーベル医学賞候補に選ばれた。

38歳頃 最後の帰国と2度目のノーベル医学賞候補

  • 1915年、野口は母シカに会うために、日本に帰国した。きっかけは、母シカからの手紙だった。シカは読み書きができない中で一生懸命手紙を書いてきたのであった。

お前の出世には、みんな驚きました。
私も喜んでおります。
中田の観音様に、お前の無事と、成功を願って夜通しお祈りをしました。
勉強はいくらしても、きりがない。

春になると、みんな北海道に行ってしまい、私も心細くなります。

どうか早く帰って来てください。
お前にお金をもらったことは誰にも言いません。
それを聞かせると、みんな飲まれてしまいます。
早く帰って来てください。
早く帰って来てください。
早く帰って来てください。
早く帰って来てください。
一生のお願いです。

(野口シカが野口英世に送った手紙の一部、NHK高校講座より引用)

  • 何せ野口は15年も日本に帰っていなかったのだ。
  • 母との再会を終えた野口はその後米国に戻り、二度と日本の土を踏むことはなかった。母シカは3年後にスペイン風邪によって65歳の生涯を閉じた。

海外で黄熱病の研究をしていた時代

42歳頃 黄熱病の研究のためエクアドルへ派遣

  • 野口はロックフェラー財団の意向を受けて、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣された。
  • まだワクチンのなかった黄熱病の病原体を発見するのが野口の使命だったが、野口はなんと到着して9日目に、病原体を「特定」してしまった。
  • この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、当時は南米での黄熱病が収束したと考えられた。その結果、野口は3度目のノーベル医学賞の候補に挙げられた。
  • ところが、これは誤りだった。黄熱病は菌ではなくウイルスだったのだ。当時の医学では、病原体は光学顕微鏡で同定するものとされていたが、高熱病のウイルスはそれでは発見することができず、電子顕微鏡の登場を待つほかなかった。

48歳頃 野口の黄熱病研究への批判が高まる

  • 1924年頃、アフリカで黄熱病が流行していたが、野口が開発したワクチンが効果を発生していないとの報告があがり、1926年には黄熱ウイルスの分離に成功する学者が現れた。

51歳頃 アフリカで死去

  • 自身の研究成果に向けられた疑念を払しょくするため、野口はガーナのアクラに滞在したのち、体調が悪化し、ナイジェリアのラゴスのロックフェラー研究所本部で死去した。
  • 黄熱病だったという説から、その他の病気だったという説、はては他殺説まで色々な死因が可能性として挙げられている。
  • 若い頃から様々な挫折を乗り越えた偉人・野口は、最期まで研究に没頭しその生涯を終えた。