山口絵理子 マザーハウス創業者

実業家

マザーハウス創業者の山口絵理子。小学校時代のいじめ、米州開発銀行でのインターン、バングラディッシュでの壮絶体験など、彼女の人生を振り返る。

幼少時代

0歳 埼玉県大宮市に出生

  • 山口は、不動産会社を経営する家庭で、3人兄妹の長女として生まれる。

学生時代

6歳頃 小学校に入学するも、いじめで不登校に

  • 山口は、自分の意思に反して強制的に参加させられる活動が苦手だった。
  • ある日、朝礼に出るのが嫌だと先生に伝えると、周囲の男子や女子生徒から暴力を受けるようになってしまう。
  • 毎日怪我をして帰宅する日々が続き、給食も食べられなくなってしまう。
  • 遂に我慢できなくなった山口は、それから約4年間不登校になってしまう。

12歳頃 中学校に入学するも非行に走る

  • 山口は、小学校時代にいじめられていた反動で中学1年で飛行に走ってしまう。
  • 髪は茶髪に染め、タバコも吸っていた。

13歳頃 「強くなりたい」という思いで柔道部に入部

  • しかし、山口は非行に走る反面、いじめに対する反骨精神から「強くなりたい」という思いがあり、ある日柔道部を見学する。
  • 自分にもできそうだという気持ちが芽生え、中学2年で柔道部に入部し、非行を止めて更生を始める。
  • 中学3年では、埼玉県大会で優勝、全国でベスト16の結果を残すまでに成長する。
  • 中学時代に柔道で優勝することができなかった悔しさから、高校でも柔道を続けることを決意する。

15歳頃 高校入学、男子柔道部に入部

  • 山口は、埼玉県立大宮工業高等学校に入学する。しかし、山口が入学する高校には女子柔道部が存在していなかった。
  • それでも山口が大宮工業高校を選んだ理由は、男子柔道部が県で最強だったから。
  • 実際、女子柔道部の強豪である栄高校からスカウトも来ていたが、全国トップを狙うために男子と練習したほうが強くなれるという思いから女子柔道の強豪栄高校のスカウトを断っていた。
  • 一方で、山口は中学時代から工業高校顧問を説得しに足を運び、本気であるということを示し入学したのだった。

16歳頃 高校2年まで柔道でスランプに陥る

  • 周りが全員男子で、そのほとんどが無差別級の選手だった。その環境は、山口にとって非常に厳しいものだった。
  • それゆえに、鼻を折ったり、指を潰したりということもあった。
  • 自分が選んだ道が間違っていたのではないかという思いが何度もよぎり、試合でも結果がでない日々が続いた。

17歳頃 高校3年で全国7位を入賞

  • 山口は、苦しい練習の日々を乗り越え、高校3年の時、全日本ジュニアオリンピック第7位にまで上り詰める。

結局、本当の敵はライバルではなく、自分の気持ちだったのです。柔道からは本当に多くのものを学ぶことができました。
(出典)DREAM GATE

18歳頃 ハンデを乗り越え慶應義塾大学総合政策学部にAO入学

  • 高校時代、山口の柔道部の仲間達のほとんどが警察や警備会社に就職する中、山口は大学入学を志していた。
  • 特にじぶんのいじめなどの経験から教育を変えたいという思いがあり、それを実現するためには社会について広く学ぶ必要があると考えていたからだった。
  • しかし、山口は大学3年の夏まで柔道一筋で歩んできたこと、工業高校の授業は普通科の高校に比べて実技に重きがおかれており、高校3年では建築や溶接の授業がメインであるなどのハンデがあった。
  • そんな中、自分の教育に対する熱い思いを語ることができた慶應大学のAO入試に合格し、見事大学入学を果たす。

18歳頃 個性的な同級生達に圧倒されてしまう

  • 山口が入学した慶應義塾大学SFCは、非常に個性的な学生が集まることで知られており、ネイティブレベルの英語で会話している学生や、プログラミングでソフトウェアを作っている学生などがいた。
  • 個性があることに加えて、学力レベルも非常に高く、山口は授業に食らいついていくことで必死だった。

 議員秘書やウグイス嬢のアルバイト

  • 山口は教育を変えるためには、政治に携わる必要があると考え、政治の現場を知るため議員秘書やウグイス嬢のアルバイトを経験する。
  • しかし、明確な糸口が見いだせなかった。

 世界の貧困問題に関心が湧き始める

  • 竹中平蔵のゼミに参加し、発展途上国における貧困問題とそれに起因する教育不足を知る。
  • 経済成長率が驚異の成長を見せ豊かになっているように見える一方、実際の国民の経済格差は依然として残っており、教育機会の不平等さは変わらないということに気づく。

22歳頃 大学4年時、就活をせず、米州開発銀行でのインターン

  • 山口は、世界の貧困問題を是正するためには国際機関が実施する開発援助が重要であると感じ、その現場を知るためアメリカの開発銀行のインターンに応募する。
  • 周囲の学生が就職活動に精を出す中、山口は高校時代と同じく周囲の友人と異なる道を望み、最終的に米州開発銀行のインターンの切符を掴むことになる。

22歳頃 貧困の現場を知らないことに違和感を感じる

  • 受かるはずないと思っていた4ヵ月の米州開発銀行のインターンに合格した山口。しかし、その舞台は山口が想像していたものと大きく異なっていた。
  • 途上国援助において、米州開発銀行は世界最大級の規模を誇るが、職員は皆エリートで、貧困の現場を知っているようには思えなかったのだった。

22歳頃 アジア最貧国バングラディッシュへ

  • 貧困の現場を自分の目で見たいと思った山口は、日本への帰国途中にバングラディッシュを訪れることに。
  • そこで見た光景は、自分が想像していたものを遥に超えていた。
  • 空港に到着するなり、物乞いに囲まれるし、街を歩けば異様な臭いを感じたり、身体的に不自由な人を多くみかけたのだった。
  • これまで自分が住んできた世界と大きく異なることを目の前にし、なぜこうなっているのか、どうにか帰れないのかと心が苦しくなった。
  • そして、山口は、まずはバングラディッシュの現状をより深く知り、自分に何かできることはないかを見つけるため、現地の大学院への入学しようと決意する。

なんらかの原体験が海外であるかないかというのは、その後のキャリアに大きな影響があると思っています。
異文化の人と仕事をして自分の価値観が広がったり壊されたりした経験のある人は、怖さを感じても、それを乗り越えて、また海外に出ていけると思います。
私の場合で言えば、22歳から24歳までバングラデシュで暮らし、そこで経験してきたことがとても大きい。もちろん行くだけじゃなく現地の人と何かをした経験が必要です。そうした経験をする人が減っているのかな、と思います。
(出典)「ハチイチ世代の旗手・山口絵理子が愛され続ける理由」現代ビジネス

23歳頃 慶應大学卒業、BRAC大学院開発学部修士課程に入学

  • 米州開発銀行のインターンから帰国した山口は、慶應大学卒業までの1年間、必死にバイトをして貯金をした。
  • 全ては、しばらくの間バングラディッシュの大学院で学ぶためだった。
  • また、山口は大学院に入学するだけでなく、更なる行動に出る。
  • それは、大学院と企業インターンの同時進行だった。

23歳頃 三井物産ダッカ支店でインターン開始

  • 山口は、三井物産で働き始めた。
  • 昼間は商社でのインターン、夜は大学院という生活を送った。
  • 夜道を歩くだけで危険な雰囲気が漂う街を、山口は一人でリキシャに乗って移動していた。

大学を卒業してすぐに、両親や友人に計り知れない心配をかけて、
山口はバングラデシュの大学院に進学しました。
一人ぼっちのアパート探しから始まり、
毎月起こるストライキ、誕生日に起きた爆弾テロ事件、
3300 万人が被害にあった大洪水。不安で全く眠れなかった日々。
人一倍怖がりの山口は、学校から帰宅する時はパンツの中に催涙スプレーを忍ばせていた、といいます。
(出典)マザーハウスホームページ

 ジュート(黄麻)との運命的な出会い

  • 山口は、三井物産のインターンの関係で訪れた見本市会場でジュートという麻素材に出会う。
  • ジュートは、コーヒー豆などを運ぶ際に使用される麻の記事で、バングラディッシュが世界のシェアのほとんどを占めていた。
  • 重いコーヒー豆を運べるほど耐久性にも優れ、環境にも優しいジュートは、山口に閃きをもたらした。
  • それは、ジュートを使ったバッグの開発だった。

善意や自己犠牲の上に成り立つ「援助や寄付」という形ではなく、
経済の基盤をしっかりと持った持続的な協力の仕方。
それは、途上国にある資源を使って、先進国でも十分通用する商品をつくり輸出を促進することだ、
と山口なりの答えにたどりつきました。
(出典)マザーハウスホームページ

 現地工場に飛び込み営業を繰り返し、事業化の一歩手前まで到達

  • 山口は、インターンをしていた三井物産の事業としてジュート製のバッグの開発を企画し、バッグ生産のための工場を探して回った。
  • 好感を示してくれた工場を見つけた後、コストの検討もつけたことから、三井物産日本本社で副社長の前で事業化の提案を行った。
  • 反応は良好だったものの、前例がないため山口の提案は却下されてしまう。

 ジュート製バッグ事業を自分でやることを決意

  • 三井物産で実現できなかった山口は、その後もジュート製バッグの開発を諦めず、自分でやることを決意した。
  • しかし、商社の資金的バッグアップや、コネクション等を使えない山口は、バッグ生産のための工場探しで門前払いにあったり、金を騙し取られらたりと散々な目に遭ってしまう。
  • それでも、何軒も何軒も探すうちに、山口の夢に乗ってくれる工場を見つけ出すことに成功する。

25歳頃 株式会社マザーハウスを設立

  • そもそも素材として扱いが難しいジュートで作るバッグは難易度が高い上、阿吽の呼吸が通用しない現地工場スタッフとの細かな品質のすり合わせは、山口の想像以上に大変だった。
  • それでも諦めずに毎日工場に通い、社長と話をするのではなくデザインや生産を担ってくれるスタッフと机を並べて試行錯誤を繰り返した。
  • 一生懸命取り組んでくれるスタッフに対し、もう一度やり直しを命じる度に申し訳ない気持ちが山口の心を締め付けた。

やはり職人とは直接打ち合わせしないと、こちらの意図は届きません。世界共通かもしれませんが、職人は自分の仕事にプライドを持っています。ですから、大事なことは、リスペクトの姿勢で臨むことです。まずはインタビューのように「あなたはどんな人間なのか」という問い掛けから始め、彼らの歴史や背景について理解するように努めています。
(出典)「起業家の意義は見過ごされているものの価値を見出していくこと」東洋経済

  • 美談では片づけられないほどのシリアスな人間関係と現場の苦しみを知った山口は、次第に現場に馴染んでいった。そして、遂に160個のバッグを生産することができた。
  • 山口はその160個のバッグを日本に持っていき、売ってもらえるようお店の開拓を開始するため株式会社マザーハウスを設立する。
  • この時、慶應大学の先輩で、当時ゴールドマンサックスにアナリストとして勤務していた副社長の山崎も、山口の理念と行動力に共感してマザーハウスに参画することになる。

創業時から黒字化するまでは、スタッフに給料を払うことが最終的なゴールと考えてしまうくらい、おカネもありませんでした。そうやっておカネのことばかりを考えているうちに、「なぜこの仕事を始めたのかなぁ」と思ったこともあります。
バングラデシュでジュート(麻)を見つけたときの感動がどんどん遠のいていって、経営する、雇用するということがどんどん負担になっていったんです。そのとき、「これは私のやりたいことじゃない」と思ってしまいました。会社は重たいし、「一人でやりたいことをやればいいじゃないか」って。当時は副社長とも相当ケンカをしましたし、会社の規模を大きくする意味もまったくわからなかった。
(出典)「起業家の意義は見過ごされているものの価値を見出していくこと」東洋経済

25歳頃 路面店への飛び込み営業

  • 販路を全く持っていなかった山口は、バッグを扱っている路面店への飛び込み営業を開始する。
  • しかし、業界の慣習では売値の半値程度で仕入れることがあり、山口は交渉の際に唖然とする。
  • 山口は、バングラディッシュの工場で一生懸命バッグの開発・生産に当たってくれているスタッフ達の笑顔が頭をよぎった。
  • 毎日彼らが一生懸命努力してくれて完成したバッグが売値の半値で仕入れらてしまうことに憤慨もした。
  • それでも、バッグが売れなければ彼らに還元できることもないため、できる限り販路が開けるよう営業を続けた。

25歳頃 東急ハンズでの取り扱いが決定

  • 山口にとって転機が訪れたのは、東急ハンズがマザーハウスのバッグを扱ってくれることになったからだった。
  • 個性的な商品を集める東急ハンズは、山口が製品に込める思いをしっかりと消費者に伝えてくれるお店だからだ。
  • また、東急ハンズのような名の知れた小売店が採用してくれたという実績は、製品の品質に太鼓判をもらえるようなものだった。
  • 山口とバングラディッシュのスタッフ達の努力が救われた瞬間だった。

25歳頃 160個のバッグが完売

  • 路面店への飛び込み営業、大手百貨店での取り扱いの末、160個のバッグが完売した。
  • 山口にとって嬉しかったのは、160個のバッグが売れたその事実よりも、その事実をバングラディッシュにいる生産スタッフに伝えることができることだった。
  • どんな反応が返ってくるか分からない中、山口はバングラディッシュに戻ると、いつものように無邪気に迎えてくれる工場のスタッフ達。
  • 全てのバッグが完売したこと知り、まるで子供のような笑顔で喜んでくれる姿は山口はようやく心をなでおろすことができた。

25歳頃 スタッフから裏切られる

  • ある日、山口が工場から帰ろうとすると、バッグに入れていたはずのパスポートがなくなっていた。
  • 現地のスタッフを疑いたくないけれど、絶対に入っていたはずのパスポート。
  • これまで自分がバングラディッシュの人のためにと思ってやってきた行動全てを、あっさりと裏切られてしまいような気持ちだった。
  • 山口は犯人探しをすることすらも嫌になり、泣く泣く工場を切り替える決断をする。

25歳頃 新たな工場でも裏切り

  • 山口は、再び工場回りをして、ようやく小規模で信頼を築けそうな工場を見つることができた。
  • しかし、当時のバングラディッシュは政情不安からデモが非常に活発になっており、工場付近で死亡者が出てしまうほど街中は荒れていた。
  • バッグづくりの素材等は既に新たな工場に搬入されているが、危険すぎる街中をある事は出来ず、工場に行くこともできない日々が続いた。
  • デモが鎮静化したある日、山口が工場を訪れると、全てのヒトとモノが工場からなくなっていた。
  • 立て続けに裏切りに遭った山口は、身も心もボロボロになり、号泣する日々を送った。

25歳頃 外国人バイヤーを嫌う堅気の職人が在籍する工場と組む

  • 頑張る意義を失っていた山口は、裏切られないために信頼のおける人からの紹介で新たな工場を紹介してもらう。
  • そこにいたベテランの職人は、まさに現場の親父という感じで、言葉数が少なく、外国人のバイヤーを嫌っていた。
  • 山口はそんな彼に対し、自分達がなぜバッグを作っているのか、それによって何を変えようとしているのかという熱い思いを伝え自分たちのバッグ生産へ協力してもらえるよう説得した。

25歳頃 新たな商品開発の開始

  • 新たな協力者を得た山口は、新たな新製品の開発に取り掛かる。
  • しかし、目の肥えた日本のお客さんにデザインも品質も気に入ってもらう製品を作るのですら困難であるにもかかわらず、ジュートという扱いの難しい素材での開発・生産はやはり簡単ではなかった。
  • それでも、マザーハウスに共感してくれているお客さんが既に現れ始めていたため、前回よりも更に良いものを提供したいという山口の思いは強くなっていた。
  • 25歳頃新商品が完売、提携百貨店が増加
  • 一つ一つの商品の細部まで山口が目を通し、すこしでも気になる部分があれば、やり直しを命じた。
  • 前回同様、一生懸命頑張るスタッフに命じる心は苦しかったが、今では商品を手に取ってくれるお客さんの顔が思い浮かぶ。
  • 工場のスタッフも、お客さんも双方が満足できる循環を作らなければマザーハウスが掲げる理念は実現できないと分かっていた。
  • そんな思いで作った商品は、日本で完売した。
  • 提携する百貨店の数も増え、マザーハウスの理念は元より、バッグのデザイン、品質に高い評価をしてくれるお客さんが増加した。
  • しかし、お客さんの数が増加すると共に、山口はお客さんとの関わりが次第に薄くなっていることに気づく。
  • 自分たちの思い、バッグが出来上がるまでの全てのストーリーを直接自分達でお客さんに伝えたいという思いが込み上げてきた。

26歳頃 上野の入谷に直営第1号店を出店

  • 資金がない中なんとか見つけた家賃8万4000円の物件への出店もまた、バングラディッシュでの工場探訪と同様に挫折の連続だった。
  • 店舗内装を整えることから、商品の検品作業等、限られたスタッフで全てを行うにはあまりにも時間が足りなかった。

 日本の販売の現場を仲間に任せ、再びバングラディッシュへ

  • 山口は自分が日本にいることに違和感を感じていた。
  • 日本にいれば雑誌やメディアの取材を受けてマザーハウスを紹介することができるが、それでは肝心の製品の開発・生産の現場を確認できなくなってしまうのだった。
  • 実際、提携工場で作られる製品の品質が安定していないことにも気づいていたのだった。
  • 山口は自分の居場所は現場にあるという思いからバングラディッシュに戻る。

 職人の退職と工場閉鎖の危機

  • 品質の安定化のため、マザーハウスは自分達の開発現場としていたサンプルルームを使って、製品の生産を行っていた。つまり、ほぼ自社工場による生産をしている状態だった。
  • しかし、ある日工場のキーパーソンとなる職人が退職を申し出て来た。また彼の退職と同時に不動産のオーナーから間借りしていたサンプルルームからの退去を求められてしまう。
  • これまで遭ってきた数々の裏切りのシーンが山口の頭をよぎった。
  • しかし、今やフルタイムで従業員を雇用する山口は彼らのために新たな工場を見つけるために再び工場探しに奔走する。
  • 今回の問題を解決したのは、山口の思いに共感するバングラディッシュ人の協力だった。
  • 人を信頼すれば裏切りにも遭うが、救いの手も差し伸べてもらうことができる。
  • 山口は新たな工場を見つけることに成功し、この困難を乗り越えた。

28歳頃 ネパールに新工場

  • ストールの生産のため、ネパールに自社工場を設立。
  • 現在では、現地のシルクを発注する最大の会社に成長。

30歳頃~現在 国内30店舗、台湾5店舗、香港2店舗、シンガポール1店舗を展開

ちなみに、同世代の女性と会話すると、自分を他人と比べている人が多いですね。比べてばかりだと、どんどんつらくなってしまいます。きっと、本当にやりたいことが見つかっていないからそんな思考に陥ってしまうのでしょう。そんな自分から脱出するためには、やはり心で考える時間を持って、本当の自分としっかり向き合うしかありません。その際は絶対に自分の心に嘘をつかない、見栄を張らないこと。そうやって本当の自分がわかりかけてきた時、もしかしたら何も持っていない自分を見つけてしまうかも。その場合は、今いる場所とは違う場所に自分の身を置いてみるといいかもしれません。
(出典)DREAM GATE