スティーブ・ジョブズ Apple創業者

実業家

Apple社を創業し、Mac、iPod、iPhoneで世界の人々の生活を一変させたスティーブ・ジョブズ。彼がどのような人生を歩んできたのか、振り返る。

幼少時代

0歳 カリフォルニア州サンフランシスコにて出生、すぐに養子に出される

  • シリア人の父親とアメリカ人の母親の間に生まれるが、母方の厳格な祖父が結婚を認めなかったため、出生前から養子に出されることが決まっていた。
  • 養子縁組の条件は「子供を大学まで行かせられること」であり、ジョブズ家に引き取られることが決まった。

学生時代

6歳頃 モンタ・ロマ小学校に入学

 4年生終了時には、6年生へ飛び級する

  • 先生がジョブズに知能検査を受けさせたところ高校2年生レベルの成績であったため、7年生への飛び級を提案された。だが、両親は子供に無理をさせまいと6年生への飛び級をさせる。
  • しかし、ジョブズは一つ年上のクラスで孤立することになってしまう。授業を受ける校舎も変わり、治安の悪い環境下でいじめに遭ってしまう。

12歳頃 在籍していたクリッテンデン中学校の治安が悪く自主退学、クパティーノ中学校に転校

  • ジョブズから「もっといい学校に行かせてくれ」と頼まれた両親は、金銭的に苦しい中、クパティーノ中学の区域にギリギリ引っかかる家を購入し、引っ越した。

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(ジョブズ家)

13歳頃 ホームステッド高校に入学

  • 高校に入学すると、幼い頃から機械いじりが得意だった父親の隣にいたジョブズのエンジニアとしての才が加速することになる。
  • 数学、科学、エレクトロニクスに興味を持ち、HP社が主催する「探求クラブ」に参加し始める。探求クラブは、HPの技術者が学生に対して、どのような仕事をしているか話をしてくれる会で、ジョブズはそこでエレクトロニクスの分野にのめり込んでいくことになった。
  • 自作で周波数カウンターを作ろうとしたジョブズは、無謀にも必要な部品をもらおうとHP社のCEOに電話した。結果、部品をもらえることになったことに加え、HP社の工場でバイトしないか?と誘われる。

13歳頃 HP社の工場でライン行程者としてバイト

  • HP社でのアルバイトは主に、ビスやナットを取り付ける仕事だった。
  • ジョブズは仕事をすることが好きだと感じており、過去には新聞配達のバイトをしたこともあったし、その後エレクトロニクスショップで倉庫係をしていたこともあった。
  • また、中学時代同様、自作でのモノづくりを続けており、父親から学んだレーザー技術を応用し、友人と共同でミュージックライトを作っていた。
  • 一方で、ぐれる時期もあり、マリファナ、LSD、ハシシなどに手を出していた。

16歳頃 スティーブ・ウォズニアックに出会う

  • 友人の紹介で、後にApple社の共同創設者となるウォズと出会う。
  • ウォズは、5歳年上なのに子供っぽく、社交性はないものの、エレクトロニクスマニアのジョブズよりも圧倒的に多い知識を持っていた。
  • 二人は、設計したエレクトロニクス機器や、過去にした電気を使ったいたずらの数々を互いに語り合い、すぐに意気投合した。

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16歳頃 ブルーボックスを制作

  • 二人にとって初めての発明となるブルーボックスを制作した。ブルーボックスは、AT&T社の交換機に使用されるトーンを作り出すことで、長距離電話を無料でかけられるというもの。雑誌で基本的な仕組みを読んだウォズがジョブに話しをしたところ、感激し、二人で試行錯誤し制作した。
  • ブルーボックスを学生に売りさばき、利益を得る初めての経験となった。
  • ここで、優れた製品設計をするウォズと、ユーザとの関係を作り上げ、マーケティングし、利益をあげるビジネス構築をするジョブズという、後にApple創業後も定着する二人の役割が明確になった。
  • 後に二人は、ブルーボックスの製作に関して、悪さをしたが、おかげですごく自信がついた経験だと述べている。


photo credit: Maksym Kozlenko Blue_Box_at_the_Powerhouse_Museum.jpg via WIKIMEDIA COMMONS (license)

17歳頃 実家を出て、彼女と二人で暮らし始める

  • 高校時代にアニメーション制作で知り合った彼女クリスアンと高校卒業時に、ロスアルト山の小屋で暮らし始める。父親は激怒したが、ジョブズは自身を貫き家を出る。
  • ジョブズは、クリスアンとウォズを誘って、時給3ドルの着ぐるみで子供の相手をするバイトもした。子供が大好きなウォズは楽しんだが、ジョブズは着ぐるみは厚いし、重いし、殴りたくなる子供もいたと言い、耐え難かった。

17歳頃 リード・カレッジ入学

  • ジョブズはスタンフォード等の有名大学への進学を毛嫌いし、リベラルアーツの私立大学リード・カレッジへの入学だけを希望した。カリフォルニア州の大学であれば学費は安く済んだが、リード大学はオレゴン州にあり、学費は高かった。

スタンフォードに行くのは、自分のしたいことがわかっている学生だ。そんなのアートじゃない。僕は、もっとアートなこと、もっとおもしろいことがしたかった
(ウォルター・アイザックソン(2011)「Steve Jobs」講談社)

17歳頃 禅に没頭する

  • ジョブズは、高校時代から果物と野菜しか食べないなど、自らの精神を貫いてきたが、ババ・ラム・ダスの『ビー・ヒア・ナウ』の影響を強く受け、禅宗を初めとする東洋思想の世界にも没頭していく。
  • 瞑想、断食を深く追及したり、菜食主義を徹底していた。また、校内を裸足で歩き、風呂には入らなかった。
  • 取りつかれたように美を追求するのも、厳しく絞り込んでゆく集中力も、禅から得られたものであった。
  • 一方で、気性が激しく他人に対する姿勢はひどいものだった。

 ロバートフリードランドに出会う

  • 彼との出会いによってジョブズはカリスマ性を身に着けたと言われる。
  • フリードランドは、一度ボードン大学に入学するも、LSD(薬物)の大量所持で逮捕され、その後リード大学に入った変わり者だった。外交的な性格で、自分の意志によって人々を動かす話術や、間の取り方、視線の使い方を身に着けていたカリスマだった。
  • ジョブズが没頭していた東洋思想にも精通し、インドに行き、ヒンズー教の導師にも会っている。ジョブズは尊敬に近い眼差しでフリードランドと交友を関係を築いた。

18歳頃 リード・カレッジを中退

  • 両親が頑張って出してくれている学費にも関わらず、それが興味がない必修科目に費やされることに耐え切れず大学を中退する。
  • しかし、大学を辞めた後も興味があった授業には潜り続け、この時カリグラフィーの授業で得た学びが、後にAppleの代名詞となるMacに生かされた。

両親は汗水たらして働き、貯めたお金で私を大学に行かせてくれました。そのころ私はなにをしたいのかもわからなかったし、大学に通ったらそれがわかるとも思えませんでした。なのに、両親が一生をかけて貯めたお金をみんな使ってしまう。そう思ったから中退し、あとはなんとかなると思うことにしました
(ウォルター・アイザックソン(2011)「Steve Jobs」講談社)

社会人時代

19歳頃 アタリ社にて働き始める

  • 求人を眺め「楽しく金を儲けよう」というフレーズに惹かれたジョブズは、ゲーム会社のアタリ社で働く決意をし、面接で「雇ってくれるまで帰らない」と居座り続けた結果、時給5ドルの技術者として仕事を得る。
  • しかし、常に裸足で風呂に入らないため、周囲から嫌われ夜勤で一人勤務となる。

19歳頃 インド放浪を決意し、アタリ社を退職する

  • 依然として東洋思想に心酔していたジョブズは、フリードランドに勧められていたインド放浪を決意する。
  • 単なる旅ではなく、自身の探求、そして導師に出会うためだった。
  • お金のなかったジョブズはアタリ社の社長であり創業者のアルコーンに資金援助を申し出たが、怒られる。しかし、ドイツで発生していたゲームの問題を解決するなら欧州までの旅費を出すといわれ快諾する。
  • ジョブズのおかげでドイツで発生していたゲームの問題は解決したが、ジョブズは風呂に入らず臭く、失礼極まりない態度という最悪の評判だった。

大好きなことをまだ見つけていないのなら、とジョブズは語りかける。
「見つけるまで探し続けることです。適当に手を打ってはいけません」
(カレン・ブルーメンタール(2012)「スティーブジョブズの生き方」あすなろ書房)

無職時代

 インド放浪へ旅立つ

  • ジョブズは、ドイツを経由して、数か月間インドを放浪する。
  • インドでは、人に騙される、水が悪く体を壊すなどで苦しみ、一週間で体重が70キロから55キロまで落ちた。
  • しかし、ジョブズは秩序が何なのか定義できない世界であるインドを目の当たりにした事が、その後の人生に大きな影響を与えたという。

インドの田舎にいる人々は僕らのように知力で生きているのではなく、直感で生きている。そして彼らの直感は、ダントツで世界一というほどに発達している。直感はとってもパワフルなんだ。僕は知力よりもパワフルだと思う。この認識は僕の仕事に大きな影響を与えてきた
(ウォルター・アイザックソン(2011)「Steve Jobs」講談社)

20歳頃 アメリカに帰国する

  • 帰国したジョブズは、実家に戻り、しばらくの間毎朝・毎晩瞑想を行い自分探求を続けた。

いちばん大切なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。心と直感は、自分が本当になりたいものは何か、知っているものなのです
(カレン・ブルーメンタール(2012)「スティーブジョブズの生き方」あすなろ書房)

20歳頃 アタリに復職する

  • ジョブズは、1年間の自分探求を経てアタリ社に復職した。
  • 社長からある条件を満たすゲームを開発できたら報酬をやると言われ、自身でやると見せかけ、夜にウォズを会社に連れ込み、4日で完成させた。

20歳頃 ホームブリュー・コンピューター・クラブに参加

  • この集会は、最初30人ほどのコンピューター好きが集まる趣味で制作した作品のお披露目会として始まった。
  • ウォズが第一回目のクラブに参加し、後にAppleⅠと呼ばれるパーソナル・コンピューターのアイデアを思いつく。その後、自宅で制作に取り掛かり、約3か月後、ジョブズがその試作機を目にすることになる。
  • ウォズは、無償でクラブの仲間にこのコンピュターを提供していたが、ジョブズはビジネスになると確信し、彼らからお金をとることを提案。
  • ブルーボックスの時と同様、優れた製品設計をするウォズと、ビジネス構築をするジョブズという構図が再現されることになった。

経営者時代①(Apple社)

21歳頃 Apple社創業

  • 創業前、ウォズはHP社に勤めていたため、開発したコンピューターはHPに提供するべきものと考えていた。しかし、製品をもって社内に提案したが、HPの製品に適さないと否定されてしまう。これがきっかけとなり、ウォズはジョブズと共に会社を立ち上げる腹を括った。
  • そして、ジョブズがワーゲンの車を売り、ウォズがHP65という電卓を売った合計資金1300ドルで創業する。
  • Apple社の名前の由来は、ジョブズが果食主義者であったことや、世間のコンピューターに対する堅苦しいイメージを少しでも和らげるべきという思いがあった。

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 Apple Iを初めて納品

  • 創業後、部品の調達や、調達のための資金の目途が立っていなかったが、ジョブズの巧みな交渉により、Apple Iをコンピューターショップに50台納品する契約を取り付ける。
  • 友人の協力を得て納品に成功したが、納品したものは、すぐに使えるコンピューターではなく、モニターやキーボードを別途購入し、自分で組み上げなければならないものだった。ショップからは、客が求めているものはすぐに使えるものだと指摘されてしまう。
  • これが後に、必要なものを全てをワンパッケージに収めたコンピューターApple Ⅱの構想に繋がる。


photo credit: ArnoldReinhold Apple 1 Woz 1976 at CHM.agr cropped.jpg via WIKIMEDIA COMMONS (license)

 他者を頼り、Apple Ⅱの開発を始める

  • ジョブズは、本能的に自分で全てを支配してしまうが、他人を頼ることにも大変長けていた。
  • 自身の描く理想のApple Ⅱの開発は、ウォズの力だけでは難しいと考え、シンプルでエレガントなケースのデザインをコンサルタントのマノックに依頼、騒音の元であるファンのない電源の開発をロッド・ホルトに依頼する。
  • 開発に伴い、資金が必要となり、投資家マークラと出会う。ジョブズはマークラを大変気に入っていた。

彼の価値観は僕とよく似ていたよ。その彼が協調していたのは、金儲けを目的に会社を興してはならないという点だ。真に目標とすべきは、自分が新じるなにかを生み出すこと、長続きする会社を作ることだというんだ
(ウォルター・アイザックソン(2011)「Steve Jobs」講談社)

22歳頃 Apple Ⅱ発売

  • Apple Ⅱのパンフレットと企業ロゴは、レジス・マッケンナに依頼する。ここで、かじられたリンゴのロゴが誕生する。
  • ジョブズは、自身の強烈なこだわりをApple Ⅱの開発に注いだ。これまでにないデザインや、ファンのない静かな電源にこだわった結果、これが高い評価を得てヒットした。
  • 発売後4年間で21万台を販売し、Apple Ⅰが200台の生産だったのに対して約1000倍の出荷台数の増加であった。


photo credit: Rama & Musée Bolo Apple_II_IMG_4213.jpg via WIKIMEDIA COMMONS (license)

23歳頃 子供が生まれる

  • ジョブズは、大学時代からくっついたり離れたりを繰り返していた彼女との間に子供を授かる。
  • しかし、ジョブズは彼女と結婚するつもりが無かったことや、彼女が自分以外の男と関係を持っていたと思っていたことも知っており、自分の子供であることを否定する。
  • DNA鑑定で90数%合致しているという結果が出ても、残りの数%違う可能性があるじゃないかと譲らなかった。裁判所はジョブズに養育費を支払うことを命ずる。また過去に受給した50万円ほどの生活保護費の返済も命じられた。
  • ジョブズは、自身が親であることを否定したものの、この子供の名前をリサと名付けた。

24歳頃 ゼロックスの技術を盗む

  • Apple社は、ヒットしたApple Ⅱの後継であるⅢの開発を始めていた。
  • しかし、自信をつけたジョブズはケース形状を先に指定し、開発を命じていた。そして、内部の仕様が変更されても、形状変更を許さなかったため、エンジニアは大変苦労し、最終的な製品は悲惨なものとなりそうだった。
  • そんな中、ジョブズは、奇妙なことにApple Ⅲの開発からすぐに身を引きはじめ、異なるコンピューターの開発を始動させる。理由は、ゼロックスの研究所を見学し、新たなアイデアを思いついてしまったからだった。
  • Apple社はゼロックス社からの出資を受け、協力関係にあったため、ゼロックス社の研究所を見学する機会を得ていた。ジョブズはそこで衝撃を受ける。
  • 当時、コンピューターには、素人には難しいコードを入力して使用するのが一般的だったが、ゼロックスはマウスを使って、画面上のアイコンをクリックするGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)の開発をしていたのだった。コンピューターをパーソナルなものにするための使いやすさを考えると、GUIというこのアイデアは画期的だった。
  • ジョブズは、このGUIを用いたコンピューターLISAの開発に完全に心変わりしてしまった。
  • ゼロックスの技術の盗用とも思われるが、ジョブズはこれを肯定している。


photo credit: Clicsouris Apple_Lisa_1983_at_Musee_de_l’Informatique via WIKIMEDIA COMMONS(license)

優れた芸術家はまねる、偉大な芸術家は盗む
(ウォルター・アイザックソン(2011)「Steve Jobs」講談社)

25歳頃 株式公開により、資産約250億円の富豪になる

  • Apple社の株式公開により、ジョブズは大金を手にしたが、生活レベルを変えるつもりはなかった。家も極めて質素で、車も自分で運転した。
  • 後にビルゲイツがジョブズの家に訪れた時、本当にここに家族全員で住んでいるのかと問われたほどだった。

 Macの開発に、途中から横取りする形で参画

  • LISAチームで、相変わらず好き放題やっていたジョブズは、周囲の反応から居心地が悪いと感じていた。
  • そんな時、安価で誰にでも使いやすい製品を作ることを目的としていたMacチームに目をつけ、チームの代表の座を巧みな話術と行き過ぎるほどのリーダーシップで奪い取る。
  • 他のチームの優秀なエンジニアの元へ行き、コンピュターの電源ごと引き抜いて強引にMacチームに迎え入れた。
  • 人を平気で罵倒するくせに、気分屋で言うことが頻繁に変わるジョブズにカリスマ性を感じで魅了される者、拒否感を示す者、共にいたが、チームは自分たちで「週90時間、喜んで働こう!」という文字がプリントされたTシャツを作り、モチベーションを高くして働いていた。

 工業製品に美しさを融合することにこだわる

  • 創業時から、ジョブズはシンプルなデザインこそ見た目で人を魅了し、さらに使い易さを生み出す大きな差別化要素であると考えていた。
  • そのため、Macもこれまでの工業製品にない美しさを取り入れることにこだわり続けた。
  • 当時、ソニーのウォークマンが世界的に大ヒットしていたが、ジョブズは美しいと思っていなかった。しかし、イタリアのバイクはシンプルで芸術性を兼ね備えたデザインの美しさがあり多くのインスピレーションを受けた。
  • また、デザインを研究する中で禅の美に強く惹かれており、京都の庭園を褒めたたえている。
  • 大学時代に(退学後も授業に潜り込み続けていた時代)、カリグラフィーの授業に出ていたこともあり、Macで表現される文字の書体にもセリフやサンセリフというフォントの美しさを求めた。

人は、たしかに表紙で書籍を評価する。最高の製品、最高の品質、最高に便利なソフトウェアがあっても、それをいいかげんな形で提示すれば、いいかげんなものだと思われてしまう。プロフェッショナルかつクリエイティブな形で提示できれば、評価してほしいと思う特性を人々に印象付けることができる
(ウォルター・アイザックソン(2011)「Steve Jobs」講談社)

28歳頃 日本へ飛び、日本のアルプス電気とソニーを訪問

  • 開発中のマックに使用予定だった自社開発のディスクドライブに問題があり、代替品を用意するため急遽日本へ飛び、アルプス電気とソニーの工場を訪問する。
  • 日本側はスーツで出迎えお土産を用意するなどもてなしたが、ジョブズはジーンズにスニーカーで手土産もなかった。
  • アルプス電気の製品は人手による生産が多いことに加えて、求めるディスクドライブの姿ではなかったため、取引先であるにも関わらずガラクタ呼ばわりした。

28歳頃 ペプシのジョン・スカリーを口説き落とし、社長に迎える

  • 当時の社長が家庭の事情により引退する意向を示したため、ジョブズは新たな社長を探す。(自身が社長を務めるにはまだ早いと自認していた)
  • ペプシのマーケティングで名をはせていたジョン・スカリーと話をし、全て計算されたような語り口で説得を続け、偉業を成し遂げたいと口説いた。結果スカリーをApple社社長に迎え入れる。

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一生、砂糖水を売り続ける気かい?それとも世界を変えるチャンスに賭けてみるかい?
(ウォルター・アイザックソン(2011)「Steve Jobs」講談社)

29歳頃 Mac発売

  • ジョブズは、Mac発売イベントで圧巻のプレゼンテーションを見せる。
  • IBMに対する皮肉をジョークを交えて表現し、Macに喋らせ、ジョブズ自身を紹介させた。Macで作成した美しい動的なプレゼンテーションも圧巻で会場はスタンディングオベーションとなった。
  • 妥協を許さず、徹底的にこだわりぬいて生まれた最高の製品は、大ヒットした。

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どのような市場調査をしたのか問われたジョブズはこう答えた
「アレクサンダー・グラハム・ベルが電話を発明したとき、市場調査をしたと思うかい?」
(ウォルター・アイザックソン(2011)「Steve Jobs」講談社)

 マイクロソフトのビル・ゲイツと組む

  • ビル・ゲイツ率いるマイクロソフト社は、ソフトウェアに定評があり、表計算ソフトやワード等のオペレーションシステムをApple社に提供することで合意した。
  • ジョブズは、ゲイツに対し美しさを理解できないやつだと思っていたし、ゲイツはジョブズに対し根本的におかしく、人間として大きな欠陥を抱えていると評価していた。しかし、双方自社の船頭であり、互いに必要な相手だと認めていた。
  • ゲイツはその後、IBMに対しても表計算ソフトやワードを提供、また、Macから学んだGUIから自社でオペレーションシステムを作り上げ、windowsを開発しIBMに提供した。
  • ジョブズは、ゲイツが多くの技術を盗み、裏切ったと感じゲイツを本社に呼び出し激怒した。しかし、ゲイツは『この件にはいろいろな見方があると思います。我々の近所にゼロックスというお金持ちが住んでいていて、そこのテレビを盗もうと私が忍び込んだらあなたが盗んだあとだった。むしろそういう話なのではないでしょうか』と反論した。

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経営者時代②(Next社)

30歳頃 Apple社から追放される

  • Macのヒットで自信をつけていたジョブズは、社長のスカリーに不満を持っており、取締役会で追放しようとクーデターを画策していた。
  • しかし、そのクーデターを知ったスカリーは逆にジョブズを追放しようと策を立て役員を取り込んだ。
  • 結果、ジョブズはApple社を辞職した。仲間から裏切られ涙したジョブズは、自宅に引きこもった。

 新会社Next社を立ち上げる

  • ジョブズは、Apple社を辞職後、持っていた株を1株だけ残し全てを売却し、その資金で新会社を立ち上げた。
  • Appleから中堅以下の社員を引き抜き、Next社を設立。Apple社時代、競い合っていたゲイツに手を組もうと持かけたが断られ、IBMと手を組みネクストコンピュターを発売した。
  • ネクストコンピュターには、当時類を見ない電子ブックや、フロッピーディスクを使わない光ディスクが搭載されていたが、その他の機能はありふれたもので、ヒットにはつながらなかった。

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30歳頃 個人資金でピクサーのコンピュター部門を買収し、会長に就任

  • ジョブズは、かねてよりピクサーのグラフィックの美しさに興味があった。そこに、ピクサー側から資金援助の依頼があり、援助ではなく、買収を行った。
  • コンピューターによる3Dグラフィックスに賭けていたジョブズはMacの時と同様のこだわりで、大衆向けのハードウェア、ソフトウェア、アニメーション事業を指導したが、全て赤字となってしまった。
  • ジョブズが予測した「大衆がピクサーのソフトウェアを使う」ことはなかったが、ディズニーはジョブズによって高められたピクサーのグラフィックスを気に入り、その後のピクサーとディズニーの関係の礎を築く結果となった。

人生はなにが幸いするかわからないもので、たぶん、あれはあれでよかったんじゃないかと思う
(ウォルター・アイザックソン(2011)「Steve Jobs」講談社)

36歳頃 ローリーン・パウエルと結婚する

  • 1989年、ジョブスが34歳の時、パウエルと出会う。
  • パウエルは、ジョブズが大学の講義に登壇するため、会場の座席に座っていた時、たまたま隣に座った女性だった。
  • 少し話をしたのち、ジョブズは夜にネクスト社員との飲み会が企画されていたにも関わらず、「もしも今夜が人生最後の夜だとしたら、仕事の会議に費やすだろうか、それともあの女性と過ごすだろうか(2012カレン・ブルーメンタール)」と思い、パウエルを食事に誘い、関係が始まった。
  • 1年間の交際の後、プロポーズするが、その後1年間ジョブズは結婚に関して一切触れなかった。しかし、その1年後、パウエルが妊娠し、再度プロポーズする。
  • 1991年、ジョブズが学び続けてきた曹洞宗の僧侶を迎え、ヨセミテ公園のロッジで結婚式が行われた。

40歳頃 ピクサー社の株式を上場させ、最大11憶ドルの資産を手に入れる。

  • ピクサー社は、「トイ・ストーリー」の制作において、メインキャラクターウッディの性格設定に関して、ディズニーから指摘を受け、制作が停止するなど、仕事が停止したこともあった。
  • ジョブズは、そうした売上が出ない間もピクサー社を資金面から支えた。そして、自身が心血を注ぐピクサー社のコンピュターグラフィックスを使った「トイ・ストーリー」の大ヒットに合わせて、ピクサー社の株式を公開し、またしても資産を得る。

41歳頃 ネクスト社をApple社に売却し、実質的にApple社に復帰する。

  • Apple社は、マイクロソフト社がパーソナルコンピューターの市場を席巻する中で、もがき苦しんでいた。
  • 累積赤字が蓄積され、素晴らしい新製品が必要な中で、ジョブズ率いるネクスト社のソフトウェアの使用を検討する。
  • ジョブズは、長らく訪れていなかった自身が作り上げたApple社を訪れ、ソフトウェアの巧みなプレゼンを展開。その結果、Apple社は、当時売上高4700万ドル程度のネクスト社を買収することを決めた。
  • 結果、ジョブズは、1億3000万ドルとApple社の株式150万株を手にした。
  • また当時のCEOからの要請でApple社のアドバイザーに就任。その後、芳しくない元自社の状況を見て、保有していた株式を1株を残し全て売却した。

経営者時代③(Apple社)

42歳頃 Apple社追放から12年間を経て、iCEOに就任

  • 当時のCEOが取締役会で追放され、ジョブズは暫定iCEOに就任(iはinterimの意味)
  • ジョブズが最初にとった行動はマイクロソフト社のビル・ゲイツに電話をかけることで、率直に助けが欲しいと頼むことからだった。
  • 2社間での特許紛争を終わらせ、マイクロソフト社がMac向けソフトウェア開発の再開をすることに加えて、Apple社の株式1億5000万ドル分の株式を購入することで合意した。

 取締役のほとんどに辞任を要求

  • ジョブズは、業績が低迷するばかりのApple社の大胆な改革を進めており、その一環が取締役の刷新だった。
  • 創業初期からのメンバーに対しても、同様に辞任を要求し、ジョブズと同様に世界を変えたいと強く望むメンバーに入れ替えた。その中には、オラクル創業者で親友のラリー・エリソンも含まれていた。

 iMacの開発を始める

  • ジョブズは、20代の時と同様のデザインへの徹底したこだわりを見せた。
  • 技術的に不可能だというエンジニアの意見に耳を傾けず、自身が考える消費者が求める理想形を実現するよう哲学的に語り説き伏せた。
  • また、ケース形状は、四角形ではなく背面が盛り上がった三角形で、半透明にキャンディー色のラインナップのケースにこだわった。
  • 製品化された後、iMacは大ブームを巻き起こした。

iMac G3 500Mhz (2001) “Indigo”

45歳頃 正式にApple社CEOに就任

  • 復帰に際し、ジョブズはApple社に8800万ドルのジョブズ専用ガルフストリームⅤという小型ジェット機、ストックオプション2000万株(約3億8100万ドル)を要求した。

46歳頃 初のApple storeをオープン

  • ジョブズは、細部までこだわりぬき素晴らしい機能を備えたApple製品が、製品にあまり詳しくない販売員によって家電量販店で売られていることに疑問を持った。
  • そこで、顧客の要望を聞き、Apple製品に詳しいスタッフが製品の使用方法を教えるジーニアス・バーというアイデアを盛り込んだ。
  • ストアのデザインもこだわり、徹底的に無駄をそぎ落とした店舗をヴァージニア州とカリフォルニア州にオープンした。

 iPodの開発に取り掛かる

  • ジョブズは、iMacの大ヒットの陰で、社会の変化を一つ見落としていたことがあった。
  • それは、若者の間では、デジタルファイルの交換ソフトウェアが普及し、既にCDで音楽を取り込むということをしていない、ということだった。
  • その変化に気づいたジョブズは、チャンスを見出す。音楽をデータでやりとりできるなら、CDやMDなどは不要になるのでは?ということだ。
  • かねてより不満に感じていた音楽プレイヤーの充電時間の短さや、収納可能な音楽数の少なさを、Appleならもっとスマートでカッコいいものにできると気づいたのだ。
  • これまで、音楽を保存するディスクに課題があったが、東芝の超小型ディスクドライブを使えば、音楽を1000曲保存して持ち歩けるようになるということに気づき、実現可能な土台が整った。
  • これに、ジョブズの徹底的なハードウェアのデザインとユーザインターフェイスへのこだわりにより、初代iPodが完成した。

photo credit: IPod1stWIKIPEDIA.png via WIKIMEDIA COMMONS (license)

 iTunesでの楽曲販売により音楽業界から敵視される

  • ジョブズの徹底的な無駄の排除へのこだわりは、音楽を聴くというライフスタイルをも変えてしまうことになる。
  • それまで、iPodへの音楽の転送にはiTunesを経由する必要があったが、まずCDからデータを取り込むか、違法なファイル共有ソフトを介するしかなかった。
  • しかし、ジョブズはどちらもナンセンスだと感じていた。音楽をiTunesからダウンロードするのが最適と考えていたのだった。
  • しかし、それを実現するためには、これまでCD販売によって利益を出してきた音楽業界に納得してもらわないといけない。ジョブズは、交渉に入った。
  • 複数曲をまとめたアルバムでの販売ではなく、1曲ずつ約1ドルで販売すると言った。もちろん売上に対応する支払いを音楽業界にするが、彼らは納得しなかった。
  • 例えば、アルバムはアーティストが1曲目から最後の曲までの順番にこだわりをもっていて、それで一つの作品なんだというこだわりがあったし、何より違法なファイル共有ソフトの普及により、データでダウンロードするというのに抵抗があったのだ。
  • ジョブズはそれでも諦めなかった。音楽レーベル会社の経営者達の元を回り、「盗みは人間をダメにする。そのかわりに合法的なやり方を作りたいんだ」と説いていった。また、有名なアーティストにもオンラインで販売することを許可してほしいと頼んだ。
  • 結果的に6ヵ月で100万曲を販売する目標だったが、6日で達成した。

48歳頃 膵臓ガンになり、余命6ヵ月と診断

  • 1990年代の後半から、ジョブズは腎臓結石をわずらうようになっており、病院にかけこむことが多くなっていた。その時、医師から腎臓のCT検査を勧められ、検査したところガンが発覚した。
  • 幸い手術すれば治ると言われたが、ジョブズはApple製品を消費者が何もいじれないよう本体を開けられないように工夫したり、スロットルを用意しなかったりした性分のため、自分の体を開かれるのは絶対に嫌だという態度だった。
  • ジョブズはこれまで以上に徹底的なベジタリアン生活をすることで、ガン乗り切ろうとしたが一定期間をおいた再検査の結果ガンが大きくなっていたため、考えを改めて手術を受けることにした。結果は成功だった。

 ガンが肝臓に転移

  • 膵臓ガンは取り除けたが、肝臓にも転移していることが発覚した。ここから化学療法を始めることになる。
  • また、肝臓ガンの手術後の回復のため、食事回数を増やし、たんぱく質を多くとる必要があったが、ベジタリアンのジョブズは一切口にしなかった。そのため、以降、公の場に現れると、ジョブズはやせ細った姿となっていた。

僕らは皆、少しの間しか地上にいられない。本当にすごくて上手にできることなんて、たぶん、ほんの少ししかないんじゃないかな。どのくらい地上にいられるかなんて、誰にもわからない。もちろん、僕にもわからない。でも若いうちに多くのことをしなければならない。そう思うんです
(ウォルター・アイザックソン(2011)「Steve Jobs」講談社)

50歳頃 iPhoneの開発に着手

  • ジョブズは、Appleのエンジニアが指先の画面タッチにより操作を可能とする技術を開発したことをきっかけに携帯電話を作れると直感した。
  • これまで電話、音楽、パーソナルコンピューターは、用途に応じてハードウェアが使い分けられていたが、一つに集約するのが最もシンプルで最適であると考えていた。

51歳頃 ピクサーをディズニーに売却し、筆頭株主兼取締役になる。

  • 当時、ピクサーはディズニーにとってなくてはならない存在になっていた。ピクサーが作り出すディズニーキャラクター、アニメーションが大ヒットしていたのだ。
  • 一方で、ピクサーはディズニーに対し、キャラクター制作に関して、多くの要求を受けており、不満が多かった。別の会社であることが、どうしてもネックになってしまうのだ。
  • そこで、ジョブズとディズニーCEOは話し合い、ディズニーがピクサーを買収することが決まった。ディズニーのアニメーション制作のトップには、元ピクサーのトップが就任することで話がまとまった。
  • ジョブズは価値にして30億ドルのディズニーの筆頭株主になったため、ジョブズがディズニーの経営を牛耳るのではないかと噂されたが、ジョブズはiPhoneの開発によって世界を変えることに夢中でそんなつもりはさらさらなかった。

52歳頃 iPhone発売

  • iPhoneの開発もまた、ジョブズが口を出すことによって大変苦労した(もちろんジョブズがいなければこの発明自体がなかったが。)
  • ジョブズが開発途中から、画面をガラスにすること、そのガラスを画面いっぱいに広げることにこだわったからだ。
  • しかし、携帯電話用の傷つきにくく頑丈なガラスは、これまでの常識にはなかったため、どこのガラスメーカーも生産しているところはなかった。
  • 幸運にも、コーニング社がかつて生産していたゴリラガラスが要件に合致していることが判明すると、ジョブズは生産してもらえるようCEOに直談判した。コーニングのCEOは無理だと言ったが、ジョブズの得意な話術を用いた口説きによって、6ヵ月でできる限りの量を生産してもらうことができた。
  • 実は、マックワールドでのiPhone公表2か月前になっても、iPhoneはまともに動く状態になっていなかったが、それでも持ち前の貫く力により、エンジニアを鼓舞し、発売に間に合わせた。
  • また、ジョブズはこれまでの携帯端末メーカーのように、通信会社に下手に出ることはしなかった。iPhoneの発売日の2週間前まで、独占販売権を許した通信会社のCEOにもiPhoneを見せなかったし、iPhoneに通信会社の名前を入れさせなかった。
  • また、iPhone用の低廉な通信料金プランを作らせるほど実権を握る事にこだわった。
  • 結果、iPhoneは、発売から3ヵ月で140万台が売れる大ヒットとなった。

iPhone 3G - achterkant

54歳頃 肝臓移植手術が成功するが、ガンが内臓の腹膜に転移していることが発覚

  • 肝臓移植リストに登録していたジョブズは、不慮の事故でなくなった男性から肝臓を移植してもらうことになり、手術は成功した。
  • しかし、ガンは内臓の腹膜を含めた他の部位にも転移していることが発覚してしまう。

55歳頃 iPadを発表

  • 手術後は、歩けるようになるまでのリハビリも含めて時間を要したが、iPadの発表ができるまでに回復した。
  • しかし、ガンの転移が発覚した後、ジョブズの体調は良かったり悪かったりを繰り返していた。
  • ジョブズは何かを悟ったように、作家に自分の伝記を書いてくれと頼んだ。また、Appleの経営陣に対し、CEOを降り、Appleを去ることを告げた。

iPad

56歳頃 家族に守られながら、息を引き取る。

Steve Jobs family

人生は短く、人はみな、あっという間に死を迎える
時間は限られています。だから、ほかのだれかに言われるままの人生で時間をむだにするひまはありません
私は運がよかった。自分がやりたいことを人生の早い段階で見つけたのですから
17歳のとき、誰かに言われたんだ。毎日を人生最後の日だと思って生きろ、いつかほんとうにその日が来るから、とね
(カレン・ブルーメンタール(2012)「スティーブジョブズの生き方」あすなろ書房)

Steve Jobs’s Grave