木村清 喜代村(すしざんまい)創業者

実業家

航空自衛隊を経て、水産業の世界に入り、すしざんまいを創業した木村清。彼の人生を振り返る。

幼少時代

0歳 千葉県東葛飾郡関宿町木間ケ瀬(現・野田市)で誕生

  • 木村は、1952年に千葉県東葛飾郡関宿町木間ケ瀬(現・野田市)で生まれた。
  • 4歳の時に、農業で家庭を支えていた父を交通事故で失った。葬儀の最中、たくさんの人が泣いている場所にいたくなかったため外に出た木村は、空を飛ぶ戦闘機を見つけ、その時、「将来、自分もパイロットになりたい」と思った。

幼少期 鶏を育てて卵を売り、家計を助ける

  • 大黒柱の父を失い、家計は苦しくなった。
  • 木村は幼稚園に入れなかったため、その時間を利用して、ウサギやハトを育てて売ったり、鶏卵を売ったりしていた。
  • その他には、近所のおばさんに頼み込んで有精卵を譲ってもらった木村は、それを育て、卵を産ませて売っていた。

戦後の貧しい時代には、私のように働く子供はどこにでもいました。子供だからできない、のではなく、子供は子供なりに知恵を使って、自分にできることをやって家計に貢献していました。その気になれば、このくらいのことはできます。「働く」とはどういうことなのか、人はなんのために働くのか──私はそうした体験を通してひとつひとつ学んでいきました。(木村清 マグロ大王 木村清 ダメだと思った時が夜明け前 講談社)

学生時代

小学生時代 田畑を耕し、新聞配達も行う

  • 小学校にあがってからも、木村は家計を助けるべくさまざまな「仕事」をした。
  • 一つは、田畑を耕す仕事だった。耕運機を安く譲ってもらった木村は、それを使って木村家の田畑を耕すと、やがてよその田畑も耕してお金を貰うようになった。
  • さらに、田畑にいるイナゴを捕まえて売ったり、ビール瓶や一升瓶を回収し酒屋に持って行ったり、果てにはゴルフ場のキャディまでやった。
  • 小学校2年生の時に新聞配達を始め、この「仕事」は中学を卒業するまで続けた。

中学校時代 成績優秀な優等生だったが、進学を断念

  • 木村は、中学校3年の時に5教科で学年で1番になるほどの優等生で、進学校への進学も十分可能な学力を持っていた。
  • しかし、家計が貧しかったため、高校への進学は断念せざるを得なかった。
  • 子供のころからウサギや鶏を育ててきた木村は、動物が好きだから、北海道の牧場にアルバイトに行こうと考えていた。
  • そんな木村に、先生が中卒でも入隊可能で、お金も貰える自衛隊を勧めてくれた。いつかパイロットになりたいと夢を持っていた木村は、航空自衛隊に入隊することに決めた。

自衛隊時代

15歳頃 航空自衛隊に入隊

  • 中学を卒業した木村は、熊谷市にある航空自衛隊第4術科学校生徒隊に入隊した。
  • 訓練は過酷を極め、入隊して1か月あまりで、腕立てを1000回できるまでに鍛えられた。
  • また、当時は第二次大戦の生き残りの上官も多数おり、上下関係が厳しく、体罰も当たり前だった。

18歳頃 パイロットになるため大検に合格する

  • パイロットを夢見ていた木村だったが、入隊してから、パイロットになるためには大学に入らなければいけないことを知った。
  • 入隊してから浦和高校の通信課程を受講していた木村だったが、それは修了に4年を要するカリキュラムだったため、大検を受検することにした。もともと頭が良かった木村は、2年半で見事合格した。

20歳頃 夢破れ、航空自衛隊を退官

  • せっかく大検に合格した木村だったが、前例がないという理由で、パイロット関係ではなく、コンピュータを扱う部署に回されてしまった。
  • 日の当たらない時期だったが、木村は諦めず朝晩10キロ走り、パイロットになるべく身体を鍛えていた。
  • ところが、木村を不幸が襲った。いつも通り走っていると、すれ違ったトラックに積載されていた信管が崩れてきて、木村の頭に当たった。
  • この負傷が原因で、木村はパイロットの命ともいえる目の調整力が落ちてしまった。そうして、戦闘機のパイロットになる資格を失ってしまったのだった。
  • 木村は夢だったパイロットの夢を諦め、自衛隊を退官することにした。

「運命は残酷だ。どうして自分が……」と、己の不運を嘆きました。失意の中で私は、一五歳から五年九ヵ月お世話になった自衛隊を退官することを決意しました。お先真っ暗となりましたが、そんな私を支えてくれたのは、「五体満足でいられるのだから、このことを感謝できる人間にならないといけない」という、かつて母から言って聞かされた言葉でした。(木村清 マグロ大王 木村清 ダメだと思った時が夜明け前 講談社)

  • 事故で夢を絶たれた木村だったが、入院先の三重の樋口病院で担当してくれた看護師と親しくなり、1974年に結婚した。

水産業に出会うまでの時代

20歳頃 株でいきなり儲ける

  • 自衛隊を辞めた木村は、68万円の貯金があった。買いたいものもあったが、勿体ないという気持ちから、株を買うことにした。
  • 当時710円だったパイオニア株を買ったら、2か月後に2750円まで値上がりし、一気に資金に余裕ができた。しかし、その後人にお金を貸して返ってこなかったりして、お金はなくなってしまった。

モーテル経営は頓挫

  • 木村は当時モーテル経営に興味があったため、経営の勉強をする目的でモーテルで働き始めた。
  • 自衛隊で磨いた清掃のスキルなどで社長に気に入られ、モーテルを300万円で譲ってくれると言われたが、自己資金では足りなかった。
  • そこで、家族や親せきを回ったが、お金を借りることができず、モーテル経営は頓挫してしまった。

司法試験を目指すも合格せず

  • モーテル経営が頓挫した木村は、司法試験を目指すことにした。
  • 木村は航空自衛隊在籍時にすでに中央大学法学部の通信課程を受講していたが、それを続け、司法試験の勉強も始めた。
  • しかし、お金がなくなっていた木村は、働かなければならず、中々学ぶ時間を捻出できなかった。
  • さらに、本を買うお金もなかったりして、司法試験に合格することはできなかった。

百科事典を売り歩く

  • 司法試験を目指すかたわら、木村は百科事典を売り歩くアルバイトをした。
  • 朝から晩まで、団地、戸建て、さまざまな家を訪問したが、1か月半だっても1冊も売れなかった。
  • ところが、ある時、途方に暮れてベンチに座っていると、子供たちが寄ってきて、百科事典について色々質問してきた。それにこたえていると、やがて母親がやってきて、本を欲しいと言われた。
  • 一旦戻り、その母親のもとへ本を持参すると、他にも母親たちが木村を待っており、次々に本を購入した。口コミで評判は広がり、その後も木村はたくさんの百科事典を売った。

こうして私は、「ものを売る」ということの意味を学びました。この経験は、非常に貴重なものでした。売ろうとしても売れない──商売とはいったいなんなのだろう、と真剣に考えるきっかけになりましたし、たちまち商売の魅力に引き込まれていきました。(木村清 マグロ大王 木村清 ダメだと思った時が夜明け前 講談社)

水産会社で働いていた時代

21歳頃 マルハニチロの子会社で働き始める

  • 百科事典をたくさん売った木村だったが、給料は増えなかったため、1974年から、職安で紹介された新洋商事で働くことにした。
  • 新洋商事は、大洋漁業(現・マルハニチロ)の子会社だった。

さまざまなビジネスを成功させる

  • 新洋商事で、水産業に初めて向き合った木村は、次々に新しいことに取り組み、成功させた。
  • 例えば、それまで捨てられていた魚の切り身や、きずもののタコなどを、居酒屋などに持って行って売り上げを上げたほか、当時はしりだった冷凍食品も居酒屋に売り始めた。
  • 当時まだ中央大学に籍を置いていた木村だったが、仕事で1000万円以上稼いでいたため、司法試験を受けるメリットがなくなったと感じ、受験はやめることに決めた。

新洋商事で働いていた時には、荷台に四トンとか六トンの水産物をビシッと並べて、お得意さんに一日四回運んでいました。行った先の冷蔵庫や倉庫がグチャグチャだと気持ち悪くてしかたありません。そのため、つい揃えてあげてしまいます。すると向こうも喜んでくれまして、そのうちなにも営業しなくても、「なにかないか?」と声をかけてもらえるようになりました。(木村清 マグロ大王 木村清 ダメだと思った時が夜明け前 講談社)

自衛隊をやめて失意のどん底に落ちた私でしたが、新洋商事で死に物狂いに働きました。まさにあの時が私の人生の夜明け前、でした。フランスの皇帝ナポレオンは三時間睡眠だったと聞きますが、当時の私の睡眠時間はその半分、一時間半しかありませんでした。(木村清 マグロ大王 木村清 ダメだと思った時が夜明け前 講談社)

別の水産会社に移籍

  • しかし、新洋商事で会社の範疇を超えて色々な商売をやりすぎたことで、木村は会社に居づらくなってしまった。
  • そのため、2年9カ月在籍した新洋商事を辞め、別の水産業者に移籍した。
  • しかし、ここも長くは続かなかった。木村は市場内でライトバンを運転していたところ、トラックと正面衝突し、手足骨折と顔に傷を負ってしまった。それだけでなく、成果に連動した給与体系だったため、実入りが減ってしまうなどの不幸が襲い掛かった。

独立して木村商店を経営していた時代

27歳頃 木村商店を創業

  • 周囲の勧めもあり、木村は独立し、木村商店を創業した。
  • とある会社に机といすと電話機だけを借りて間借りした簡易な事務所だった。
  • 水産物の売買で売上を増やした木村は、イクラやエビのリパック(大きなパックに入った商品を小分けにして販売すること)したり、マグロの輸入も始めたほか、弁当店も開業した。

カラオケやビデオレンタル店でも儲ける

  • この頃木村は積極的に多角化も行った。コンテナを利用して、カラオケ機材やソファを入れたレンタル形式のスナックをスナックに貸し出し、300室を運用したほか、レンタルビデオ店も経営した。

バブル崩壊とともに会社を畳む

  • バブル崩壊と共に、事業を譲渡したり、社員に独立を許したりし、木村は木村商店を畳んだ。

喜代村(すしざんまい)を経営した時代

45歳頃 喜よずしを開店

  • 木村商店を畳んだ木村だったが、孤独ではなかった。
  • 木村を応援する周囲の知人たちが知らない間に次々資金を振り込んできて、300万円が手元に残った。
  • 1997年、10坪のスペースに寿司店喜よずしを開店した。資金が潤沢ではなかったため、カウンターもネタケースもない店だったが、「高級店よりも安く明朗会計で、大衆店よりおいしい」というコンセプトは、顧客の心を掴み瞬く間に繁盛店となった。

49歳頃 すしざんまいを出店

  • 2000年頃、木村は、築地をなんとか活性化できないかという相談を受けた。当時の築地は、訪れる人が今より少なく、すたれていくことが危惧されていた。
  • そこで木村は、24時間空いている明朗会計の寿司店を開くことを考案した。それがすしざんまいだった。すしざんまいも、瞬く間に人気店となり、行列ができるようになった。
  • そのうち、少しずつ店舗を増やすようになった。もともと店舗数を増やすことを目標にしていなかったものの、顧客ニーズに応える形で店は増えて行き、今では北海道や九州など、東京以外にも店舗を持つようになった。