中村哲 医師

医師

パキスタンやアフガニスタンで医療と治水を行い、アフガニスタンに緑を取り戻す「奇跡」を起こした中村哲医師。彼の人生を振り返る。

幼少時代

0歳 福岡県福岡市で誕生

  • 中村医師は1946年に福岡県福岡市で生まれた。

幼少期 祖母から倫理観を教わる

  • この頃の中村医師は、福岡県若松市(現北九州市)にて、実家近くの母方の実家に遊びに行っていた。
  • 祖母からはよく説教を受けていたが、それが中村医師の倫理観の一部を形作ることとなった。

「おばあちゃんに言われたことはすべて昔の人が持っていた常識ばかり。それが今になっても染みついています」(2019/12/04 日本経済新聞電子版)

学生時代

12歳頃 福岡県古賀市立古賀西小学校 卒業

  • 小学校低学年の頃は、教育熱心だった両親から、正座で論語の素読をさせられた。これも、中村医師の価値観を形作る要素の一つとなった。
  • また、小学校の同級生の父親が昆虫マニアだったため、その影響を受けて中村医師も昆虫好きになった。

15歳頃 西南学院中学校 卒業

  • 中村医師は、福岡市内の西南学院中学校に入学した。
  • 在学中の1962年にキリスト教に出会い、キリスト教徒になった。キリスト教は、小学校のころに習った論語とともに、中村医師の大切な価値観となった。

18歳頃 福岡県立福岡高等学校 卒業

  • 中村医師は、福岡県内屈指の名門高校である福岡高等学校に進学した。
  • 小さいころから昆虫が好きだったため、当初は大学へ進学し、農学部の昆虫科で学びたいと考えていた。
  • しかし、昆虫の研究では両親から大学進学の許しを得られないと思ったため、九州大学の医学部を受験し、合格した。医学部に入学した後は、農学部に転部するつもりだった。
  • もっとも、当時は医師不足が社会問題化しており、それを解決したいというのも、医学部へ進んだ理由の一つだった。

26歳頃 九州大学医学部 卒業

  • 結局中村医師は農学部へ転部することなく、1973年3月に医学部医学科を卒業した。
  • その後は、日本国内で精神科医として勤務した。

日本で医師をしていた時代

32歳頃 初めてパキスタン、アフガニスタンに出会う

  • 1978年、中村医師は、そのころ所属していた山岳会の活動で、アフガニスタン北東部のヒンズークシ山脈を訪れた。アフガニスタンやパキスタンを訪れる初めての経験だった。
  • 昆虫少年だった中村医師にとって、モンシロチョウの原産地を訪ねる登山で行きついた場所だった。

37歳頃 中村医師を支援するためペシャワール会が発足

  • 1982年、パキスタンにある病院からJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)に医師の派遣要請が届いた。
  • 登山を通じてパキスタンやアフガニスタンに愛着を持っていた中村医師は派遣に立候補すると、1983年、JOCSはその赴任を支援するためペシャワール会という団体を発足させた。
  • 当初は中村医師と近しい人たちの同好会的なグループだったが、徐々に本格的な基金団体に成長した。

「福岡登高会という登山隊の遠征に同行しました。すっかり気に入ってしまって。機会があればこんな所で働きたいと思っていたら、パキスタン北部のペシャワルの病院が医師不足を訴えていると聞いた。「私でよければ」と手を挙げたわけです。「高い理念から…」とよく言われますが、そうでもない。半分は楽しみで行った」(2019/12/05 中日新聞朝刊)

パキスタン・アフガニスタンで医師をしていた時代

38歳頃 ハンセン病治療のためパキスタンへ赴任

  • 赴任の準備が整った1984年、中村医師はハンセン病治療のためパキスタンに赴任し、ペシャワール会現地代表となった。
  • アフガニスタンとの国境近くのパキスタン北西部でハンセン病を中心とした医療支援に取り組んだ。訪れる患者の大半はソ連軍の侵攻によりアフガンから逃れてきた難民で、1日50人ほども診療する日々が続いた。
  • 当初は6年の任期を終えたら帰国するつもりだったが、現地の惨状を目の当たりにし、帰国を思いとどまった。

43歳頃 アフガニスタン山間部で医療を始める

  • 1989年からは、アフガニスタン山間部でも医療活動を始めた。アフガニスタン山間部では医者がいないことを知ったためそう決断した。
  • 一時はパキスタンとアフガニスタンの両国で最大11カ所の診療所を運営し、約20人もの医師が働いていた。

治水に取り組んでいた時代

54歳頃 医療の限界を感じ灌漑を作り始める

  • アフガニスタンで医師を続けていた中村医師に、2000年頃、転機が訪れた。アフガにスタンを大干ばつが襲ったのだ。
  • 干ばつを契機として、中村医師の元へ、幼い子を連れた母親が次々やってきた。みな赤痢や腸チフスに罹患しており、栄養失調の子供たちが目の前で次々と命を落としていった。清潔な水と食べ物さえあれば命を落とすことはない病気だった。
  • 水を確保するため、中村医師は2000年ごろからアフガニスタン各地で井戸を掘る活動を始めた。掘った井戸は千以上になったが、多くの井戸はしばらくすると地下水が枯渇して枯れてしまった。
  • 井戸からも思うように水を得られない中、中村医師は全長25キロの灌漑用水路の建設を計画した。現地に土木の専門家や業者はいない中、独学で設計図を書き、地元の農民を指揮しながら自ら重機を運転した。

「実際に工事に取りかかると大変な苦労が待っていました。用水路を掘ったり整地したり、土砂を運んだりするための機械や道具が十分にありませんでしたから。仕事をお願いする業者もいませんでした」(週刊エコノミストonline 2018年9月18日「アフガンを支援=中村哲・医師 問答有用/710」)

55歳頃 9.11 米国同時多発テロを契機にアフガニスタン空爆が始まる

  • 2001年、米国での同時多発テロを契機に、アフガニスタンは米国を中心とする多国籍軍の空爆の標的となった。
  • ただでさえ大干ばつが起き人々が飢えていた中での空爆だった。街や市民は傷ついた。治安悪化を受け、これまで差し伸べられていた国際的な支援も届きにくくなった。
  • 中村医師も灌漑を作業している最中に米軍からすぐそばに機銃掃射を受けたことがあった。しかし、中村医師はアフガニスタンに残り、灌漑工事を続けた。

 マルワリード用水路着工、マグサイサイ賞を受賞

  • 中村医師は2003年、計画していた「マルワリード用水路」に着工した。全長27キロの用水路を作り、アフガニスタン東部を流れるクナール川から取水するという計画だった。うまく行けば、クナール州からナンガルハール州一帯3000ヘクタールを潤す計画だった。
  • 同年、アフガニスタンで長年奮闘する中村医師に対し、「アジアのノーベル賞」とも言われるフィリピンのマグサイサイ賞が贈られた。

 マルワリード用水路が通水に成功

  • 着工から6年余りが経過した2009年8月、マルワリード用水路は通水に成功した。機材や業者がいない中、堰が川に流されるなどのトラブルを乗り越えての快挙だった。
  • 「真珠」を意味する「マルワリード用水路」は2010年、ついに完成した。それまで砂漠だった土地にあっという間に緑が蘇り、1万6000ヘクタールが緑の田畑に変わった。放棄されていた村は復活し、人々も戻ってきた。現在では60万人が暮らしており、地元の人々はこれを「奇跡」と呼んだ。

「現在では砂漠だったとは思えないほど、緑豊かな土地になりました。用水路が延びていくごとに、草や木も生えるようになります。今では野菜作りや畜産、田植えも行われているほどです。水が届くようになると、荒れた村も少しずつ復活し、人の交流も活発化します」(週刊エコノミストonline 2018年9月18日「アフガンを支援=中村哲・医師 問答有用/710」)

「水路が広がるごとに田園が広がり、廃村が復活する。魔法のような光景だ。一木一草生えなかった荒野は、小麦の緑と菜の花の黄色で鮮やかに覆われている」(水路の完成を見た中村医師の言葉、2019/12/06 東京新聞朝刊)

64歳頃 現地住民のためにモスクとマドラサを建設

  • 中村医師はキリスト教徒でありながら、現地にモスクとマドラサを建設することを決めた。もともと住民たちは建設を計画していたが、自力では建設できていなかった。
  • 米軍の進駐などによって現地のイスラム教徒たちが自尊心を傷つけられている中で、それを回復させたいとの願いもあった。
  • PMSが福岡市のペシャワール会などから資金援助を受けながら、2010年に現地にモスクとマドラサを建てた。モスクの建設が始まったときの住民たちの喜びは、見たこともないほどだったという。

70歳 旭日双光章を受賞

  • 2016年、アフガニスタンでの長年にわたる医療活動や灌漑事業で人道支援に寄与したという理由で、中村医師は旭日双光章を受賞した。
  • 在アフガン日本大使館で勲章を手渡されると、「地元の団体や人々の活動が公に褒められたことが素直にうれしい」とコメントした。

72歳頃 アフガニスタンのガニ大統領から国家勲章を授かる

  • 2018年2月には、アフガニスタンへの貢献が認められ、ガニ大統領から国家勲章を授けられた。

「アフガニスタンでは少なくても、あと20年は活動を継続したいと考えています。それが国の安定にもつながると信じています。(中略)とにかく、みんなが三度三度、家族でご飯を食べる幸せを味わうことのできた昔の状態を取り戻したいと思っています」(週刊エコノミストonline 2018年9月18日「アフガンを支援=中村哲・医師 問答有用/710」)

73歳頃 銃撃により死去

  • 2019年12月4日、中村医師は、アフガニスタン東部ナンガルハル州のジャララバードから、用水路の工事現場に向かう車中で銃撃を受けた。
  • ガニ大統領が軍兵士と共にアフガン国旗で包まれたひつぎを航空機近くまで運び、12月8日に中村医師は「帰国」した。
  • 世界中から中村医師の功績を称え、その死を悼む声が寄せられた。