安藤忠雄 建築家

実業家

大学教育を受けない身でありながら、次々と歴史に残る建築を作ってきた安藤忠雄。そんな彼の人生の岐路を振り返る。

幼少期

0歳 誕生

  • 1941年、実母朝子の第一子として誕生。一卵性双生児の兄だったが、長男の安藤は、朝子の両親、安藤彦一とキクエに養子として引き取られた。

学生時代

少年時代 模型作りを好む少年だった

  • 終戦間近の1945年、大阪空襲により安藤家は全財産を失ってしまったが、大阪市北東部の旭区に引っ越した。
  • 終戦後すぐに父彦一が他界してしまうが、母キクエの元、安藤は元気に育った。近所の工場に潜り込んでは、木っ端を貰い、工作遊びをした。小学校4年生の頃には模型の飛行機を作り始め、6年生の頃には簡単な設計図を描き橋や船の模型も作れるようになった。

12歳頃 大阪市立大宮中学校に入学、模型から建物へと興味が移る

  • 中学校2年生の時、自宅に二階を増築することになった。近所の若い大工が屋根を解体すると、天井の大きな穴から光が差し込んだ。家をつくる仕事がしたいとおぼろげに考えるようになった。
  • この頃影響を受けた人物は、数学教師だった。学年700名中40名だけが選ばれる特別授業に成績の悪かった安藤もなぜかよばれ、そのおかげで数学だけは進んで勉強するようになった。

15歳頃 府立城東工業高校入学、プロボクサーになる

  • 安藤は家計を心配し、中学を出たら働くつもりだったが、キクエの教育方針により高校だけは卒業することになり、府立城東工業高校に進学した。
  • 2年生の時、双子の弟がボクサーとしてファイトマネーを貰っていると聞き、安藤もボクシングジムに入り、プロボクサーの資格を取った。
  • 何試合か行い、戦績も悪くなかったが、ある時ファイティング原田の公開スパーを見てその実力を目の当たりにすると、「自分はボクシングでは一流になれない」と悟り、高校卒業とともに辞める決意を固めた。

フリーター時代

18歳頃 アルバイトをしながら建築士を目指す

  • 経済的事情から、大学進学は無理だった。学歴もなく、母子家庭だった安藤は、家具のデザインや店舗の内装などのアルバイトを始めた。必要な知識は通信教育で学んだ。
  • まだ世間知らずだった安藤は、この時初めて建築をするのに建築士という資格が必要なことを知った。安藤は大学はおろか専門学校も出ていなかったため、建築士2級の受験資格を得るためには実務経験を7年積むことが必要だった。建築学科に通う友人に頼み、授業で使う専門書を買ってもらい、これを毎日読みこんだ。そして、休日には必ず古い建物を見に行った。
  • アルバイトをしながら建築士を目指す中で、コルビジェの作品集に出会った。独特の魅力に惹かれた安藤は、アルバイトで稼いだお金でコルビジェの本を買いあさった。そして、読むだけでなく、図面を繰り返し模写していた。

「身近にいた同級生の多くが鉄工所や自動車工場への就職を決めるのを尻目に、私は就職することよりも、自由でいることを選んだ。ほんの短期間、会社勤めも試みたのだが、生来の自由で激しい気性で、続くはずもなく、すぐに辞めてしまったのだ」
(「建築家 安藤忠雄」安藤忠雄、2008年、株式会社新潮社)

世界を放浪していた時代

23歳頃 欧州を中心に世界を旅し、建築を自らの目で見て学ぶ

    • 1964年、日本で海外渡航が自由化された。西欧建築を自らの目を見たいと考えていた安藤は、好調だったインテリアデザイナーの仕事を中断してでも、欧州へ旅立つことにした。船ではバロスフクにいくと、シベリア鉄道でモスクワに向かい、フランス、スイス、イタリア、スペインを巡った。憧れのコルビュジェに会おうとしたが、安藤がパリにつく丁度1か月前にコルビュジェは亡くなっており、会うことは叶わなかった。
    • ヨーロッパ各国の建築を見物し、マダガスカル、インド、フィリピンによって7か月にもわかる旅を終えた。しかし安藤はそれでは飽き足らず、その後もアルバイトでお金を貯めては世界を旅して回った。

「抽象的な言葉として知っていることと、それを実体験として知っていることでは、同じ知識でも、その深さは全く異なる。この旅で、私は生まれて初めて、地平線と水平線を見た。ハバロフスクからモスクワまでシベリア鉄道に載って150時間、車窓から覗いた延々と変わらない平原の風景。インド洋を進む船の上で体験した、四周どこまでも海しか見えない空間。現在のようなジェット機での移動では、あんなふうに地球の姿を体得する感動は得られないだろう」
(「建築家 安藤忠雄」安藤忠雄、2008年、株式会社新潮社)

事務所を設立した時代

28歳頃 事務所設立するも、仕事は殆どなかった

  • 1969年、安藤は知人の紹介により結婚し、梅田に10坪ほどの小さな事務所を開いた。建築士1級の免許は独学で既に取得していた。事務所は夫婦2人とスタッフ1人で始めた。
  • 最初の仕事は、弟の友人の自宅である「冨島邸」だった。冨島邸ができたとき、雑誌「新建築」の編集長が取材に来てくれたが、まだ安藤の実力が足りず、掲載は見送られた。
  • 当時、建築家として生きていくためには、学閥のネットワークに入っていることが不可欠だった。しかし安藤はそもそも大学に行っておらず、コネが一切なかった。しかし、安藤は人に頭を下げて営業をするようなことも性に合わなかったため、発想力で勝負することに決めた。
  • 28歳の時、大阪駅前のビル一棟一棟を緑化し、それらをデッキで結んで空中庭園を作る「大阪駅前プロジェクトⅠ」などを構想し、市役所に持ち込んでみたが、仕事にはならなかった。
  • 頼まれもしいないのに勝手に土地を見つけては、建築の提案を持ち込む安藤を多くの土地所有者は迷惑がったが、中にはそれをおもしろがり、発注してくれる人も現れた。そのように、じわじわと、仕事を獲得していった。

「私が仕事を始めた69年の頃は、私自身にまだ仕事はなかったけれど、多くの人も仕事がなかった時代です。60-70年代というのは不安でしたが、そのなかで、自分で未来をつかまえようと前を見て目が輝いている時代でした」(「建築のチカラ 闘うトップランナー」日経アーキテクチュア (編)
森 清、有岡 三恵、2017年、日経BP)

35歳頃 賛否を呼んだ初期の建築「住吉の長屋」竣工

  • 「新建築」への掲載はされなかったが、「冨島邸」を評価した雑誌もあった。それが雑誌「都市住宅」で、「冨島邸」と、安藤の建築に対するスタンスをまとめた「都市ゲリラ計画」が掲載された。すると、それを読んだ読者が、設計の依頼に尋ねてきた。
  • 依頼主の物件は、両隣の家と壁を共有する、三件長屋の中央だった。1000万円という限られた予算の中で、安藤は元々の長屋のを切り取り、コンクリートの箱型の家を建てた。1976年、住吉の長屋は完成した。
  • 朝日新聞にコラムを書いていた伊藤ていじと知り合った縁で、「住吉の長屋」がコラムで紹介されたのを皮切りに、建築専門誌でも取り上げられ、新しい取り組みだという賛辞が送られた。1979年には日本建築学会賞を受賞した。しかし、生活動線を断ち切るように建物の中心に屋根のない中庭を作ったこと、外面がコンクリートで覆われ、開口部が入り口しかなく閉鎖的であることなどが問題視された。

40歳頃 コシノヒロコの家「越野邸」を建てる

  • 安藤とコシノヒロコは、同世代のクリエイターとして、遊び仲間だった。当時の安藤はまだ目立たない存在であったが、神戸の北野や帝塚山に作った建築を見せてもらうと、家を建てるなら安藤に設計を頼もうと考えた。
  • 1970年代後半、それまで低価格で個性的な住宅を手掛けてきた安藤の元に、コシノヒロコから依頼が舞い込んできた。場所は芦屋で、値段は青天井。これまでとは異なるベクトルでの挑戦であった。
  • 安藤は、それまでに培っていたコンクリート打ちっぱなしの技法を存分に使いつつ、ルコルビュジェのロンシャン礼拝堂のように、時間と共に移り変わる光の在り方で建築を表現しようとした。
  • 1981年、小篠邸は完成した。コシノは母のために和室を用意していたが「こんな貯水ダムみたいなコンクリートの家で暮らしたくない」と同居を断れてしまった。
  • 性能面はそれほど重視されずに制作されたため、冬には子供にスキーウェアを着せて過ごさせたコシノだったが、小篠邸を気に入り、その後も、たびたびアトリエの増築、改築を行い、現在では「KHギャラリー芦屋」として一般公開している。

42歳頃 断崖の上に六甲の集合住宅を建設

  • 1978年、安藤は六甲山の麓の平坦地にに、分譲住宅の建設を依頼された。しかし、安藤は指定された平坦地よりも、その背後にそびえる斜面に住宅を建てたほうが、神戸港を一望できてよいと考えた。
  • 斜面の上の建設は、難航した。そもそも用途地域の指定から、高さが10メートルしか許されなかったが、斜面に合わせて建物の高さはせり上がる構造のため、ゆうに基準の高さを超えてしまっていた。
  • そこで安藤は、斜面に合わせてせり上がる、建物の底の部分を、高さを測る際の基準点とさせてもらうよう行政を交渉し、規制の問題をクリアした。
  • また、自然の産物である斜面の上に住居を建てるうえで、応力の計算が非常に複雑になることも課題となった。安藤は、当時最新式だったコンピューターを使うことで、この問題もクリアした。
  • しかし、最大の課題は、工事そのものにあった。60度という急な斜面での工事で、しかも予算が限られているとあって、建設会社は全く手を挙げてくれなかった。ようやく、地元の小さな建設会社が引き受けてくれたが、人手不足で安藤は測量などを手伝いに行った。
  • こうした苦労の末に1983年、断崖の上に六甲の集合住宅は完成した。その後、1993年に第Ⅱ期、1999年に第Ⅲ期、2009年には代Ⅳ期の建設が続けて行われている。

48歳頃 中の島プロジェクトを通じて、関西の経済界の知己を得る

  • 1989年、大阪ナビオ美術館で、自主企画の展覧会を開催したが、市当局は賛同してくれなかった。
  • プロジェクトは実現に至らなかったが、これを通じて安藤は、サントリーの佐治敬三、アサヒビールの樋口廣太郎、三洋電機の井植歳男、京セラの稲森和夫らといった、関西の経済界の巨人たちと親しく付き合うようになった。
  • 安藤は、持ち前のコミュニケーション能力で、彼らと社会について議論することでつながりを深めていき、後年それぞれから仕事を受注している。

51歳頃 直島にベネッセミュージアムを竣工

  • 1986年、ベネッセホールディングスの創業者である福武哲彦が急逝した。哲彦は瀬戸内海に浮かぶ直島を、ベネッセの通信教育を受ける子供たちのためのキャンプ場にしたいと考えていたが、叶わなかった。そこで、後を継いだ福武總一郎は父の遺志を継ぎ、直島を購入すると、安藤に相談を持ち掛けた。
  • 当時の直島は金属精錬産業の影響で荒廃しており、緑もなかった、さすがの安藤も無理な計画だと考えていたが、直島を文化の島として再生するという總一郎の強い意志を汲み、参加を決意した。
  • 安藤ははげ山に苗木を植え、緑を再生するところから始めた。また、總一郎は、作られた後の建築物に入るアートを調達するため、各国の美術家に協力を呼び掛けた。
  • 1992年、ベネッセハウスミュージアムが完成した。宿泊滞在をしながら美術鑑賞できるという点は新しかったが、この時点では単に芸術作品を展示するという点では従来型の美術館と差別化ができていなかった。
  • 1997年、直島を大きく特徴づける「家プロジェクト」が始まった。ベネッスハウスミュージアムから離れた木村地区で、江戸から明治にかけて作られた民家を修復し、それ自体をアートとしたり、その中にアートを展示する試みが始まった。この取り組みは直島自体をアートの島として一躍有名にした。
  • 2004年、安藤の代表作の一つとなる地中博物館が完成した。ベネッセハウスミュージアムからわずかな距離にある壇上の塩田跡地に、地中に埋め込まれた美術館を建設した。頭上からのかすかな光を頼りに地中の闇を進んでいくと、タレル、デマリア、モネのアートを包む光の空間がうかぶ。ベネッセコーポレーションが安藤とともに手掛けてきた直島のアート事業の集大成となった。

53歳頃 旧サントリーミュージアム天保山完成

  • 1988年、当時サントリーの会長だった佐治敬三から唐突に「おまえ、建築家らしいな」と言われ作品を見せるように言われた。佐治とは建築事務所を構え、仕事がさっぱりなかった1972年からの知り合いだったが、今までは建築家だとは知らずに接してきた。
  • 安藤は住吉の長屋に佐治を案内した。佐治は「狭いな、寒いな、不便やな」と言い残して帰っていったが、翌日安藤の元を訪れると、とがったコンセプトを貫いた住吉の長屋を褒め、美術館を作る依頼を申し込んだ。
  • サントリー創業90周年事業の一つだったが、大芸術や文化と親しめる空間、そして街中では中々見られない「きれいな夕日」を眺められる美術館がコンセプトとして、1994年、サントリーミュージアム天保山を完成させた。

65歳頃 表参道ヒルズ完成

  • 表参道ヒルズは、元々同潤会アパートが建っていたが、再開発の話が持ち上がった。
  • もともと同潤館は1923年に発生した関東大震災の復興支援のために設立された団体であり、不燃の鉄筋コンクリート造で住宅を供給することをその目的としていた。そのため、米軍による東京大空襲でも、焼け残った歴史ある建物だった。
  • 森ビルから依頼され安藤は設計を行ったが、その際に、元々あった歴史に配慮した。もともと表参道ヒルズがある通りは、ケヤキ並木がある坂道だった。そのため、高い建物を建てるのではなく、270mもの長さになる道沿いの建物を低層に抑え、代わりに地下を約30m掘った。また、「同潤館」という名前で建物を一棟残すことにした。
  • こうして2006年、表参道の歴史と調和した表参道ヒルズが完成した。