カルロス・ゴーン 日産自動車元社長

実業家

ルノー、日産、三菱の「1000万台クラブ」の頂点に君臨しながら、一転逮捕され追われる身となったカルロス・ゴーン。ブラジル、レバノン、フランスの三重国籍を持つ彼の人生を振り返る。

幼少時代

0歳 ブラジル・ポルトベーリョで誕生

  • ゴーンは1954年、ボリビアとの国境にほど近い、ブラジルのポルトベーリョという町で、レバノン人の両親の間に生まれた。
  • 父ジョージはブラジル生まれのレバノン移民2世で、母ローズはナイジェリア生まれでレバノンで高等教育を受けた女性だった。
  • 祖父は20世紀初頭に、宗教対立や貧困がひどかったレバノンからブラジルにに渡った移民だった。そうしてゴーンの祖父は、当時まだ未開拓地だったアマゾン流域のポルトベーリョに移住したのだった。

幼少期 レバノンに移住する

  • ゴーンは子供のころ健康問題があったため、母ローズと姉とともに、環境が良いとされるレバノンに移り住んだ。
  • 当時レバノンはシリアから大レバノン共和国として独立したが、フランスの統治下に入っていた。ゴーンはこの環境の中で、フランス語を習得していった。

学生時代

十代の頃 レバノンの一貫校で高校まで進む

  • ゴーンは、「コレージュ・ノートルダム」という、イエズス会系で高校までの一貫校に通った。
  • この頃のゴーンは歴史や語学を好み、学校の成績は良かった。しかし、先生には反抗的な問題児で、友達と話をしたり、遊んだりしてルールに従わず、学校では勉強しようとしなかった。
  • ゴーンは、この一貫校に11年間通った。

20歳頃 国立理工科大学(エコール・ポリテクニーク)入学

  • ゴーンは、母ローズの薦めにより、レバノンではなくフランスで高等教育を受けることを決め、大学進学のため単身渡仏し、準備学校に通った。
  • ゴーンはビジネススクール出身の銀行マンであるいとこ、ラルフ・ジャザールが憧れの存在だった。彼のようになるため、自分もビジネススクールに入りたいと考えていたが、理系を重んじる準備校の意向を受け、ゴーンは理系大学に進むことにした。
  • 結局、ゴーンは1978年、国立理工科大学(エコール・ポリテクニーク)に入学した。

24歳頃 国立高等鉱業学校(エコール・デ・ミーヌ)卒業

  • ゴーンはエコール・ポリテクニークを2年で卒業し、エコール・デ・ミーヌの工学部に進学した。成績はよく、ゴーン自身は研究を続けることを望んでいた。

ミシュラン時代

24歳頃 ミシュラン入社、ル・ピュイ工場配属

  • そんなゴーンだったが、ある日、ヘッドハンターから電話が来たことで、就職をすることになった。ミシュランがブラジルに進出するため、ブラジルに詳しい技術者を探していたのだった。
  • 当初は興味がなかったゴーンだったが、家族に相談すると面接に行くことを薦められ、面接に行った。ミシュランの採用の熱意を感じたゴーンは、結局ミシュランに入社した。
  • 最初は大型タイヤを製造するル・ピュイ工場に配属され、生産性の向上に関心が強かったゴーンは、毎日何度も現場に足を運んだ。

27歳頃 ル・ピュイ工場長就任

  • こんにち世界一のタイヤメーカーとなったミシュランも、当時はまだまだ成長の途中だった。
  • 市場をグローバルに広げる中で、ミシュラン社内でポストが若い世代に回ってきた時代だった。当時入社3年目だったゴーンも、いきなりル・ピュイ工場の工場長に抜擢された。
  • 工場長として2年働き、工場経営を軌道に乗せた。
  • その後、本社のCEOフランソワ・ミシュランから声がかかり、土木建設、 農業機械用タイヤ研究開発部門を統括することになった。

31歳頃  ブラジル・ミシュラン社長就任

  • 1985年、ゴーンはミシュランにとって「火中の栗」になっていたブラジルの責任者に抜擢され、リオデジャネイロに赴任した。
  • ブラジルでは金融危機、政情不安や軍のクーデターが起き、ハイパーインフレが起こっていた。ブラジルでは損失が膨らみ、巨額の負債がミシュラン本体の最大の懸案事項になっていた。
  • ゴーンの見立てではブラジル事業の問題の原因は、政府の物価統制にあったため、政府と粘り強く交渉を続け、価格の引き上げを認めさせるべく交渉した。
  • 逆に、ブラジル・ミシュランの強みであった2つの巨大ゴム農園は決して手放さなかった。
  • やがてブラジル経済が上向き、ブラジル・ミシュランの業績も回復に向かった。

36歳頃  北米ミシュランの会長、社長、CEOに就任

  • ブラジルミシュランの経営再建で評価を上げたゴーンは、ミシュランの北米事業部の社長兼COOに抜擢され、家族とともに北米へ移住した。
  • ミシュランは1990年に規模拡大に向け、ユニロイヤルを買収したが、それが問題になっていた。ユニロイヤルは古い設備を多く抱えていたため、生産性が低かったのだった。
  • ゴーンは、工場を3つ閉鎖した。世間からは批判を浴び、「コストカッター」というゴーンの呼び名がこの頃つけられた。
  • 一方で、この頃ゴーンは、その後日産でも活用した「クロスファンクショナルチーム」の原型をこの頃に編み出している。ミシュランとユニロイヤル双方から優秀な人材を集めて経営執行委員会をつくったのがそれだ。
  • その後、ゴーンはミシュランのナンバー2にまで昇格した。

ルノーや日産の経営者になった時代

42歳頃  ミシュランを退社しルノーの上級副社長に就任

  • 創業一族がおり永遠にトップになれないミシュランから、ゴーンはルノーへ移ることにした。
  • ルノーは当時のナンバー2が引退間近で、その後任を探していた。
  • ルノーでは上級副社長として入社したゴーンは、まず3千人が働くベルギーのビルボールド工場を閉鎖した。
  • ゴーン自身は「創造のための破壊」と表現したが、非難の的となり、メディアからは再び「ル・コストカッター」と書かれた。
  • ゴーンのリストラが手伝い、ルノーは1997から1999年にかけて業績を大きく改善した。

45歳頃 日産自動車のCOOに就任、リバイバルプランに基づきリストラを断行

  • この頃、日本では日産が経営危機を迎えており、出資先を探していた。
  • 結局ルノーが出資先になることが決まり、当時のルノー役員の中で最も企業再生や国際業務の経験を持っていたゴーンが日本のトップとして赴くことになった。
  • ゴーンは、ルノーから日産へ赴く社員が「植民地を支配するような」態度をとらないよう、注意深く人選を行った。また、ルノー社員にはフランス人だけで固まって行動しないように指示を与えた。

「その頃にはルノーから幹部や管理職クラスが日本に到着しつつあった。人選で重視したのは熱意と、開かれた精神の持ち主かどうかだった。日本に着いたら植民地を支配するように振る舞いそうな人はふさわしくなかった。必要としたのは、日産の人々と一緒になって問題解決に当たれる人材だった」(2017/01/12 日本経済新聞 朝刊 カルロス・ゴーン(11)日産へ――異質な人同士心一つに、ルノーから管理職、溶け込む努力(私の履歴書))

  • その後まもなくゴーンは再生計画である「日産リバイバルプラン」を発表した。村山工場など国内の完成車工場3カ所の閉鎖や、グループ人員をトータルで2万1000人削減する計画だった。
  • 結局、5つの工場を閉鎖し、15万人いた従業員を2万人減らした。生産工場だけでなく販売店もリストラし、国内向けモデルを減らしていった。日産の国内販売力を一層弱める効果が持っていたが、とかく短期的には日産は黒字を生み出せるようになった。
  • 1999年度の決算は黒字転換した。

51歳頃 仏ルノーの株主総会で、CEOに選出

  • 2005年、ゴーンはルノーのCEOに選出された。
  • ゴーンは日産とルノーという「フォーチュン・グローバル500」に名前が載る2つの大企業を同時に率いる初の経営者になった。

56歳頃 役員報酬で日本一になる

  • 日本では、2010年3月期から、上場企業が年間報酬1億円以上の役員の氏名と報酬額を開示することが義務付けられた。
  • その年、ゴーンの報酬も開示され、8億9千万円を貰っていることが判明した。それは、役員報酬で日本一だった。
  • その年、日産は無配だったにもかかわらず、高額の報酬を貰うことへの批判や、社員をリストラしながら高額報酬を貰うことに対し批判が出たが、ゴーンは「グローバル企業CEOの報酬額の平均に比べれば低い」と主張した。

62歳頃 ルノー、日産、三菱の1000万クラブの頂点に

  • 2016年に三菱自動車は燃費偽装問題が発覚し経営危機に陥った。
  • 日産が三菱自動車の発行済み株式の34%を取得し筆頭株主となり、戦略的アライアンスを締結。
  • その後、ルノー・日産・三菱アライアンスが発足し、ゴーンは、3社合計販売台数が1,000万台を超える「1000万台」クラブの頂点に君臨した。

64歳頃 日産の不正検査問題が発覚

  • 世界的な自動車連合の形成に突き進む一方で、足元の日産では17年秋に国内工場で無資格者が品質検査に従事していた不祥事が発覚。
  • 日産は国内新車販売の停止や大量のリコールに追い込まれた。ゴーンは株主総会では、責任を問う株主の質問に対して「CEOの西川氏が日産のトップだ」と発言。自らの責任を否定するとも取れるため批判が起こった。

逮捕、そして国外逃亡の時代

64歳頃 東京地検により逮捕・起訴される

  • 2018年11月、ゴーンは金融商品取引法違反で東京地検特捜部に逮捕され、日産、三菱の会長職を解任された。2011年3月期から2015年3月期においてゴーンの金銭報酬が合計約99億9800万円であったにもかかわらず、合計約49億8700万円と記載した有価証券報告書を提出した疑いがもたれてたことが理由だった。
  • その後も4度起訴され、2019年4月には、ゴーンは日産自動車が中東の販売代理店に支出した資金のうち約500万ドル(約5億6000万円)を私的流用したとして、会社法違反の特別背任罪で追起訴された。

65歳頃 保釈中にレバノンへ逃亡

  • 2019年、ゴーンは保釈されたことを利用し、レバノンへ逃亡した。
  • そもそも、保釈が認められるのは、逃亡や証拠隠滅の恐れが高くない場合に限られるが、弁護側は保釈後の国内住居に監視カメラを設置するなどの条件を提示して保釈決定を引き出した。
  • パスポートは弁護団があずかっており、海外渡航禁止が保釈の条件だったが、ゴーンはそうした条件を全く無視するかのように逃亡したのだった。
  • 2020年1月にはレバノンで記者会見を開き、自らの正当性と日本の司法制度の悪さを批判した。