日本を代表するサッカー選手であり、ビジネスマンとしての一面も持つ本田圭佑。彼がどのような人生を歩んできたのか、振り返る。
幼少時代
0歳頃 大阪府摂津市に生まれる
- 本田は、1986年に大阪府摂津市に生まれた。
6歳頃 摂津市立鳥飼北小学校入学
- 本田は、地元の摂津市立鵜飼北小学校に入学した。
- 小学校2年の時に、阪神大震災を体験している。
7歳頃 両親が離婚し、父方に引き取られる
- この頃、本田は両親の離婚を経験している。この出来事が、まだ少年だった本田をサッカーに向かわせることになった。
「幼い頃に私の両親が離婚した。大好きな親だったからショックを受けました。毎日、練習に明け暮れた。サッカーをしている間は両親のことを考えずに済んだ」
(2016/12/27 日刊スポーツ「「幼い頃に両親離婚」本田サッカー熱中の理由」)
7歳頃 摂津FCでサッカーを始める
- サッカーを始めた理由は、父親からペレのワールドカップの試合を見せられ、影響を受けたから。
- ちなみに、小学4年生だった本田選手は摂津FCの活動だけでは飽き足らず、兄の部活にも参加させてもらっていた。
- 小学校の卒業文集には、「ヨーロッパのセリエAに入団する。40憶円の年俸。」という具体的な夢を記載していた。
- 著名なスポーツ選手は幼少期に具体的な夢を記載する傾向にあり、これは本田だけでなく、野球のイチローにも通じることである。
中高時代
12歳頃 摂津市立第四中学校入学
- 本田は、部活ではなく、ガンバ大阪ジュニアチームでプレーしていた。
15歳頃 星稜高校へ入学
- 本田は高校入学と同時に、ガンバ大阪ジュニアユース昇格テストに落ち、星稜高校のサッカー部に所属。
- しかし、昇格テストに受かったとしても行くつもりはなかったという。
なぜユースは受かっても行かないつもりだった?
「すごいシンプル。当時、ユースってプロに行ける可能性が低かったと思うんですよ。オレはプロになるという目標から逆算して、そのためには子供ながらに高校選手権に出ないといけないと思った。選手権に出て大活躍すれば、プロのスカウトの人の目に留まるから。そういうことを中学1年生のときに考えて、高校サッカーの方に行くって決めていた」
(出典:木崎伸也(2016)「直撃 本田圭佑」 文藝春秋)
15歳頃 円宮杯全日本ユース選手権準優勝
高校時代は先輩を立てなかった?
むしろなぜ立てる必要があるんだ?って思っていましたからね。俺の方が上や!って。
(木崎伸也(2016)「直撃 本田圭佑」 文藝春秋)
17歳頃 全国高等学校サッカー選手権大会ベスト4
- 本田は高校サッカーで優勝はできなかったものの、キャプテンとして星稜高校チームを率いて活躍を見せた。
プロ入り後
18歳頃 名古屋グランパスエイト入団
- 本田は高校在学時に名古屋グランパスからオファーを受け、入団を決意する。
- 本田が入団条項に入れたのは、「オファーがあれば海外移籍を認めること」だった。
22歳頃 オランダVVVフェンローへ移籍、彼女と結婚
- 本田としては、念願の海外移籍だったが、当時VVVは2部リーグだった。
オリンピックで惨敗して(注:2008年の北京オリンピックで1次リーグ敗退)、僕、オランダの2部で戦うことになったんですけど。
僕、ずっと世界一になりたかったのに、オランダに行ったあげく、辿り着いた先は2部でプレーするということが……。
<中略>いわゆる「もう逃げ道がない」という感覚の精神論にちょっと近かったかなと、思い出すと。そこで変わらざるを得なかったというか、もう行くしかないと。
逃げたらもうなにも……、もう失うものないので、もうとにかく攻めようというタイミングがそこでしたね。21才の時かな。
(出典: https://logmi.jp/151504)
24歳頃 ロシアCSKAモスクワへ移籍
- 本田がオランダからロシアに移籍した理由は、自分が成長したいというのが第一の理由だった。
- ロシアのサッカーのレベルは本田がそれまで思っていたよりも高く、ワールドカップで勝つには必要な経験と思っていた。
すごく自分は人よりも好奇心が旺盛な性格だと僕自身も思っているんですけど、その結果、新しいことを目にしてしまうと試してみたくなるっていうのが、皆さんがいう「挑戦」というようなものにつながっているんだと思うんですよね。
人それぞれ、どういった形の人生を送りたいかということだと思うんですけど、僕が日々意識しているのはやはり人生は1回しかないっていうことを常々考えていて。
さらに言えば本当にいつ死ぬかも分からないっていうことは、おかしいことかもしれないですけど20代前半から考えていましたし、次来るチャンスかどうかも分からないチャンスが目の前にあるなら、常に挑戦しようっていう心構えで日々生活しています。
(引用元 https://thetv.jp/news/detail/99402/)
26歳頃 大阪にサッカースクール「SOLTILO FAMILIA」を開校
- サッカースクールの開校理由は、「サッカーを通じて夢を持つことの大切さを伝えたい」だった。
27歳頃 イタリアセリエA・ACミランへ移籍
まあ、やっていることはみんなとあまり変わらないんだけどね。結局、みんなが嫌がることを我慢してできるかどうかなんですよ。オレはスーパーマンでもなんでもない。ただみんなが嫌なこともやれるし、夢のためにやりたいことも我慢できる。それを本当に徹底していて、あとは人よりも思いがちょっと強いだけ。その差が結果に現れたりするんですよ
29歳頃 オーストリア・3部リーグSVホルンの経営に参入
- 本田は、根本的にビジネスが好きで、成り上がるためにサッカーをやってきた。その結果、サッカーの魅力に憑りつかれてしまったため、サッカービジネスをやっている。と語ったことがある。
31歳頃 メキシコCFパチューカへ移籍
- メキシコ移籍の理由は、無難な選択をしようとしていた自分に腹が立ったからだった。
- 日々熱くなれそうなチームを選んだ結果、それがパチューカだった。
本田くんは「安定」という言葉についてはどう思う?
「安定って言葉は、これまで生きてきてあんまり使ったことがないし、聞いたこともないですね。僕の辞書にない言葉です」
出典:Number(2011)
32歳頃 オーストラリアメルボルン・ビクトリーFCへ移籍
- 移籍決定前、本田はサッカー選手以外にもチャレンジしたいことがあり、そのチャレンジを理解してくれるクラブと交渉していると語っていた。
32歳頃 カンボジア代表監督に就任
- この契約は、現役の選手が監督を行う異例の契約となった。
- 本田は、サッカーのスタイルを確立すること、カンボジアの魅力を世界にアピールすることを使命として活動する。
33歳頃 フィテッセ・アーネムへ移籍
- 本田は、元々フィテッセの練習に参加するだけのつもりだったが、監督からすぐに獲得したいという話を持ちかけられたことで、入団を決めた。
- 本田は10年ぶりにオランダのクラブに復帰した。
今まで挑戦し続けて何度も失敗を繰り返してきました。でもそのたびに思うことは、挑戦して良かったなと。リスクを恐れず挑戦して良かったなということが今の本田圭祐をここまで築いてくれたと思っています。なので、僕自身もこれからも挑戦し続ける男でいたいなと思っています。
皆さんも、いろいろ普段働かれていて、なかなか思うようにいかないところがあるかと思います。それは僕も一緒です。そんなにうまくいく人は、こういった職業でいろんなすごい人を見てきていますけど、なかなか世の中にはそういう(すごい)人はいないと、自分だけではないと思って、少しリラックスされて、開き直って、次の挑戦に向かっていってほしいなと思っています。
これからも素晴らしい日本を共に築けるような、そんな挑戦者でい続けられればと思っておりますので、お互い頑張りましょう。
(出典: https://thetv.jp/news/detail/99402/)