熊谷正寿 GMOインターネット創業者

実業家

一代でGMOグループを作り上げた熊谷正寿。彼の人生を振り返る。

幼少時代

0歳 長野県東部町(現・東御市)で誕生

  • 1963年7月、母方の実家である長野県東部町(現・東御市)に生まれる。父新は神楽坂を中心に不動産、飲食店、パチンコ、アミューズメントを営む熊谷興業の創業者で、母百代は東京でテーラーを営む商人の娘であった。なお、父方の祖父は原敬の側近で、立憲政友会の副幹事長を務めた熊谷巌。

学生時代

6歳頃 父に経営の考え方をおそわる傍ら、ヒッチハイクにでかけていた

  • マルチに事業を営む父新は、子供のころから熊谷に経営者としてのものの見方を教えていた。夕食時には、商売の基本や、上手な対人関係のつくり方など、経営に関する様々なことを父から教わった。
  • 遠くまででかけるのが好きで、1週間程度の1人旅によく出かけていた。中学2年の時、日本海経由で北海道に行った。周遊券を購入してSLにも乗った。知床半島のウトロまで足を伸ばしたところで財布を失くしたことに気がついた。仕方がないので大学生と偽ってアルバイトをして何とか東京に帰ってきた。その頃から1人で生きていく知恵や行動力を持っていた。

「父との会話は、私が小さいころから普通の会話ではありませんでした。例えば、レストランにいっても『正寿、ここの店の売り上げがわかるか。メニューの単価と、席の数を数えて、回転率を計算するんだ』といった話をするのです。そういう意味では事業家のトレーニングを知らずに受けていたのだと思います」
(「高校中退、売上高1200億円 実業家の父から帝王学  GMOインターネットグループ代表 熊谷正寿氏(上)」2016年、NIKKEI STYLE)

15歳頃 猛勉強の末、國學院高校に首席で合格

  • 中学校の頃、熊谷はあまり勉強が得意ではなかった。中学3年の進路相談で、渋谷か青山にある共学の高校に通いたいという理由で、青山学院か國學院に行きたいと伝えたところ、職員室で担任の先生から「お前、何言ってるんだ。自分の偏差値を考えたことがあるのか」と言われ、他の先生にも笑われてしまった。熊谷はこれに悔しさを感じ、一念発起し猛勉強を始めた。
  • それから受験までの数カ月間は、睡眠時間を削り、猛勉強した。必要な参考書や教科書は、すべて丸暗記したほどだった。
  • その結果、國學院高校に首席で合格を果たした。入学式には新入生代表のスピーチも任され、国学院大学の学長からは「君は国学院大学に進学せずに東大に行ってくれ」とまで言われた。

17歳頃 首席で入学した國學院高校を2年で中退

  • ところが、高校受験の成功体験が「やればいつでもできる」という慢心を生み、熊谷は全く勉強をしなくなった。2年生になった頃には学年で600人中500番まで成績が落ちた。期待を裏切ってしまったという居⼼地の悪さに加え、学校という枠にはめられることが、⾃分には向いてないと思い始めていた。結局、2年生の夏に高校を自主退学してしまった。
  • 高校を中退した熊谷は、ディスコのDJ、喫茶店のカウンター、クラブのバーテン、ビラ配り、マクドナルドなど、様々なアルバイトをして生活していた。

「高校2年生の5月ごろ、親に退学届を書いてもらいました。『どうやって辞めてやろうか』と2、3カ月、毎日、退学届を胸ポケットに入れていました。『けんかして辞めるのは格好が悪い』と思い、何もないときに担任だった先生の授業で出すことに決めました。しーんとしている教室にいきなり歩いて行って『辞めます』と」
(「高校中退、売上高1200億円 実業家の父から帝王学 GMOインターネットグループ代表 熊谷正寿氏(上)」2016年 NIKKEI STYLE)

社会人時代

17歳頃 長野県のパチンコチェーン立て直しに奮闘

  • そんなある日、熊谷に転機が訪れた。長野県で親戚が経営する信州マリーというパチンコの経営が芳しくなかったのを聞いた熊谷は、自ら名乗りでて急遽手伝うことになったのであった。釘師としての猛特訓を1 ヶ月ほどしたあと、パチンコ店で働きだした。1981年のことだった。
  • 熊谷の下にはいきなり30,40代の部下が数十人ついた。しかし若く経験のない熊谷に最初からついてくる部下は一人もいなかった。元々のやり方をいきなり変えすぎてしまい、孤立し、最初の2、3ヶ月はまったくうまくいかなかった。それからは、従業員と朝昼晩の食事を共にし、よく話し合い、お店をよくするためにかなり考えたことで、従業員の協力も得られるようになった。
  • ここでまだ10代だった熊谷は、次々と新しい仕組みを取り入れた。両替機がなかった当時、従業員が着るトレーナーに100円玉のマークを入れて、両替金を持ってもらい、客が立たなくても両替できる仕組みを作り出した。また、朝一番に15分で打ち止めになるような台「びっくり台」を作ることで、それまで閑古鳥が鳴いていた店に、入りきらないほどの客が来るようになった。こうして2年で信州マリーを立て直し、東京に戻ってきた。
  • また、この頃に学んだデータによる経営が、その後のGMOの経営にも活かされた。ノートに信州マリーが持つ全てのパチンコ台の出玉管理等をつけ、電卓をブラインドタッチしながら、数百台を毎日手計算していた。
  • 読書家の熊谷は、部下のマネジメントに悩んだとき、デール・カーネギーの『道は開ける』を読み解決の糸口を探していた。

「当時の私は、20歳そこそこですでに30、40代の部下を30⼈ほど抱える⽴場。だが、知識も経験も少ない若造である私に年上の部下たちがどうしたら付いてきてくれるのか、マネジメントへの悩みは尽きることがなかった。そんな時に書店でふと⾒つけたのがこの本だった。書かれている⾔葉⼀つ⼀つに感銘を受けた。例えば「⼀度に⼀粒の砂、⼀度に⼀つの仕事」という⼀節がある。砂時計の砂が⼀粒ずつ落ちるように、⼈は⼀度に⼀つのことしかできない、という⾔葉だ。経験のない⾃分でも、できることから着実に歩を進めていけば、ゴールに辿(たど)りつけるのだと思った。悩んでいる時にはこんな当たり前のことが⾒えない。
(【この本と出会った】GMOインターネット代表取締役会⻑兼社⻑ 熊⾕正寿)

20歳頃 結婚し、東京で極貧生活を送る

  • 東京に戻った熊谷は結婚し、父の下で働いた。江戸川橋に寮があり入ったが、あまりに古い建物のため、傾いていた。また、使用できる電気容量が少なく、電子レンジとドライヤーを同時に使うとヒューズが飛んでしまうこともしばしばだった。そして、ヒューズボックスが屋上にあり夜中は入れないので、朝までローソクで過ごさなければいけなかった。
  • 使用できる電気の容量が少なく、電子レンジとドライヤーを一緒に使うとヒューズが飛んでしまうんです。電気が使えなくなっても、ヒューズボックスが屋上にあって夜中は入れないため、朝までロウソクで過ごさなければいけなかった。

21歳頃 仕事、家事、育児、学業に追われ、将来を模索し始める

  • この頃、熊谷に娘が誕生した。また、高校を中退したコンプレックスもまだ残る中で、放送大学の1期生として、勉強も始めていた。しかし父の方針で、会社の仕事は極めて忙しく、給料も決して多くはなかった。⽗からは「⼀番安い給与で⼀番働いて、他の社員の⼿本になれ」と⾔われていた。また「⼈間は動物とは違う。書物を通じて、⼈の⼀⽣を数時間で疑似体験できる。だから本を読め。⽣涯勉強しろ」と教わった熊谷は、少しでも時間があれば勉強していた。いくつもの勉強会にも参加し、あらゆる新聞や本を読み漁った。当時の⽣活は⾁体的にも精神的にも、そして経済的にも苦しく、どれほど頑張っても一向に幸せになれない時期だった。
  • ある日、帰宅すると、妻がお金がないので明日から働くと泣いていた。結局、妻はウエイトレスのアルバイトを始めた。すると、朝、保育園に預けられるのがわかっているため娘も泣くようになってしまった。そうした家族の姿を目の当たりにして熊谷は、自分の人生について模索し始めた。
  • 熊谷は、まず「夢のリスト」を作ることから始めた。⾃分が⼀⽣涯を通してやりたいこと、欲求・欲望・夢を⼼のおもむくままにメモに書き留めた。そして、最終的に自分は「幸せ」と「成功」を実現したいということを突き詰めた。そして、それを実現するために、⾃分の夢・⽬標を時系列に落とし込み、⾃分の未来を年表化した。
  • その実現のために、健康面では運動をはじめ、教養⾯では、毎⽇⽋かさず新聞を読むなどの努力を重ねていった。
  • 23歳のころ、性格改造のため、本で学んだことや人から聞いたことを、手帳に書きとめていた。
    「礼儀正しいか」「自説を強要し過ぎていないか」「押しが弱くないか」といった項目を性格改造チェックリストとして書き、当時常に持ち歩き、絶えずチェックしていた。

「孫さんもそうですし、生死の境目をさまよった話は有名ですよね。ジョブズもそうですよね。あと僕はちょっともうレベルは低いけど、やっぱり17歳、20歳、22、23歳の頃にものすごい苦労経験がやっぱあって、それがバネになるんですよね。僕みたいなのは屈折したバネかもしれないけれども、バネがある人とない人だと、発揮できる力が違うと思うんですよ。だからいまは、本当に「苦労は買ってでもしろ」って言葉ありますけど、いろんな苦労された方がいいと思います。僕の人生今はこんなに苦しいけれど、お金もないし時間もないし、家は傾いているし、本当にもう、なんだかもうこれは幸せじゃないって思ったときに、人生のゴールを決めたんです。今は苦しいけれど、将来はこうしようって。だから航海にたとえると、まさに今風に言うならば、人生のGPSを手に入れたのか。当時風に言うんだったら、灯台を決めたってことだよね」

27歳頃 ボイスメディアを起業

  • 1991年、熊谷は父の会社を離れ、ボイスメディアを立ち上げた。
  • 様々な業界を研究し尽くしていた熊谷は、鉄道会社や財閥系といった、長く続く会社に興味を持った。そして、インフラで、かつストック型のビジネスが成功しやすいとあたりをつけていた。がしかし、この時点ではまだインターネットを自らの事業にすると決めていたわけではなかった。

私は昔から父の会社を継いで社長になるつもりでした。ところが、自分が一人っ子だと思っていたのに、それぞれ母親の違う兄と、弟がいたことがわかりました。ただ、父をかばうと、オヤジは一生結婚しませんでした。大正8年(1919年)生まれの父と、今の基準とは違うかもしれないけど、3人とも母親が違うだけでちゃんと息子みんなの面倒をみました。ただ、私にしてみれば、長男だと思って父について学んでいたのに、跡取りじゃなかった。社長にもなれない、学歴も高校中退で就職もできない。消去法で自分で事業をやるしかなかったんです。
(「高校中退、売上高1200億円 実業家の父から帝王学 GMOインターネットグループ代表 熊谷正寿氏(上)」2016年 NIKKEI STYLE)

29歳頃 インターネットと出会う

  • 1992年のある日、⽇経流通新聞(現⽇経MJ)の記事でインターネットを知った熊谷は、秋葉原でネットデモを実体験しに行った。当時は、インターネットが広がるかどうか、懐疑的な意見も数多くあったが、世界中から瞬時に情報が取れることは、未来を感じさせ、熊谷はこれを事業にすることを決めた。
  • まずは、プロバイダーサービスから着手した。当時のインターネットは、クレジットカードを用いたプロバイダー契約が中心で、申し込んでから開設までに時間がかかり、手軽に使うことができなかった。そこで熊谷はNTTと交渉し、契約をしなくても誰でもできる、インスタントプロバイダーを始めた。
  • その頃、当時パートナーだった米軍の退役軍人のエンジニアと、シリコンバレーの原始的なデータセンターを見学した。当時、日本人が独自ドメインのホームページを作るためには、高い料金でドメインを取得し、サーバーを用意する必要があり、しかも英語で手続きしなければならなかった。そこで熊谷は、低料金で日本語で簡単に申し込みができるドメイン取得サービスとレンタルサーバー事業を始めた。
  • いずれもインターネットの基盤を支えるインフラで、かつ一度収益化の仕組みを作れば自動的に収益を生み出し続けるストック型のビジネスだった。年々消費者は増え続け、GMOは順調に成長していった。

32歳頃 徹底的な権限移譲によりまぐクリックが史上最速で上場

  • インターキュー最初の子会社である、メール広告事業のまぐクリックは00年に設立された。
  • 「すぐ事業を立ち上げて、すぐ黒字化し、すぐ上場すること」だけを元取締役副社長CCの西山に命じ、権限は全て委譲した。スタッフは僅か10名程度だったが、スタッフの力を総動員することで、創立後364日で上場した。
  • 364日は当時の上場の最短記録だった。

32歳頃 東証一部上場

  • 東証一部に上場。
  • しかし、1年間の上場審査の間、熊谷は積極的な投資をすることができず、その間にライブドアやサイバーエージェントと行った後発IT企業の躍進をただ見ているほかなかった。この時の焦燥が、その後に熊谷を危機に陥れることになる。

36歳頃 独⽴系インターネットベンチャーとして初のジャスダック上場

  • インフラかつストック型ビジネスのプロバイダー事業、レンタルサーバー事業、ドメイン登録事業は、いずれも契約すれば収益を生み出し続けた。その結果、1998年8⽉、GMOは独⽴系インターネットベンチャーとして初のジャスダック上場を果たした。

43歳頃 オリエント信販を買収したことで、最大の経営危機に陥る

  • 2005年、熊谷はGMOグループの事業拡大のため、消費者金融事業者のオリエント信販を買収した。買収額は270億円。本業のウェブインフラ事業、ネットメディア事業に加えて、ネットと親和性の⾼い⾦融事業を⽴ち上げれば、「経営の3本柱が確⽴、経営が安定するとの思惑があった。しかしそれだけではなく、上場審査で1年間何もできなかったという思いも熊谷を動かしていた。
  • しかし、それから半年後の2006年利息制限法の上限⾦利を超える「グレーゾーン⾦利」について、業者側に返還を求める判決が最高裁で下され、信販業界に大きな影響を与えた。
  • GMOも例外ではなく、監査法人から、過払い⾦の請求に備えて、過去10年にさかのぼり、300億円の引当⾦を積むように求められ、270億円で買った事業が、いきなり莫大な赤字を生み出した。
  • それまで順調に成長を続けていたGMOは、2期連続の赤字に陥った。債務超過に陥り、会社が潰れる危険性もあった。熊谷は精神的に追い詰められ、ある日、⼀家で練炭⾃殺する夢を⾒た。その頃の手帳には「弱気にならない。諦めない」と毎日書き込み持ちこたえていた。

「仲間と20年近く努⼒して築き上げたものを⼀気に失ったのは、もう⾔葉で表現できないような脱⼒感と失望感でした」
(【私の危機突破】⾼い志と仲間の団結で400億円の損失を乗り越える/GMOインターネット代表取締役会⻑兼社⻑ 熊⾕正寿、2009年、企業家倶楽部)

  • 2007年、再⽣の助⾔を依頼していた米系投資ファンドから、500億円でGMOを売るように打診された。熊谷はGMOの株式の約半分を保有していた。もしGMOを売れば、この途方もない苦しみから抜け出すことができ、余生を静かにハワイで過ごすこともできた。
  • しかし、熊谷はお金の奴隷にはならなかった。この誘いを断ると、自らの財産と、借金をして工面したお金の計170億円をつぎ込み、オリエント信販の処理を進めた。
  • 通常、会社が危機に陥ると経営幹部が真っ先に辞めてしまうことが多いが、GMOは「鉄の結束」で、誰⼀⼈経営幹部が辞めなかった。逆に経営幹部が毎⽇10時間以上、早朝から深夜までディスカッションやシミュレーションを重ねた。その結果、400億円つぎ込んだオリエント信販をGMO取締役 が設⽴したNK3ホールデングスに500万円で売却し、最大の経営危機を脱した。

「私個⼈から⾒ると、400億円か借⾦かという分かれ道でしたが、最終的には茨の道を選んだ。⾺⿅なように⾒えますが、振り返ってみるとやはり正しい判断だったと思います。よく1万円で⼼が動く⼈間は1万円の価値しかないと⾔われます。⼀度きりの⼈⽣なんだから、仲間への約束は男として守りたい、夢や志は諦めたくない、という気持ちが強かった。だから、400億円くらいでは⼼が揺らがなかったのでしょうね」
(【私の危機突破】⾼い志と仲間の団結で400億円の損失を乗り越える/GMOインターネット代表取締役会⻑兼社⻑ 熊⾕正寿、2009年、企業家倶楽部)

47歳頃 クリック証券を子会社化し証券事業に参入

  • オリエント信販の買収失敗で経営危機に陥ったGMOだが、2011年には「2度目の正直」として、クリック証券買収に踏み切った。
  • 多くのネット証券会社がシステムを外注する中、GMOクリックはシステムを自社開発することで中間マージンを削減し、顧客の増加に伴いサーバーを数珠つなぎに増やす方法でコストを抑え業界最低水準の手数料を実現した。
  • また、海外の香港やロンドンにも拠点を作り進出した結果、FX取引高が世界一位にまで成長した。

55歳頃 仮想通貨事業を開始

  • 2017年、熊谷は仮想通貨事業への参入を発表した。
  • 電気代が安く、マイニング装置の冷却コストも安くて済む北欧にマイニングセンターを設けた。
  • また、処理性能が世界最高水準マイニング装置を自社開発し、市販化することを宣言した。

「創業から20年以上が経過し、私たちもインターネットの古い企業になりかねないという危機感があった。そんな中、弊社の強みを鑑みて、今やるべきは仮想通貨の領域だと定め、⼀気にアクセルを踏みました」
(「【仮想通貨事業で世界⼀を⽬指す】GMOインターネット代表取締役会⻑兼 社⻑・グループ代表 熊⾕正寿 Masatoshi Kumagai」2018年、企業家倶楽部)

  • ところが、ビットコインを始めとする仮想通貨の相場下落や、ハッシュレートの想定外の上昇などの要因が重なり、GMOインターネットがマイニング関連事業で約355億円の特別損失を計上し、自社装置の開発、製造、販売を断念した。
  • しかし、仮想通貨を「インターネットの再来」と捉える熊谷は、マイニングそのものは継続している。大きな挫折から立ち上がってきた熊谷の今後が注目される。