出光佐三 出光興産創業者

実業家

巨大な既得権益に闘いを挑み続け、日本の石油産業を切り開いていった出光佐三。海賊と呼ばれたカリスマがどのような人生を歩んできたのか、その岐路を振り返る。

幼少期

0歳 誕生

  • 1885年、福岡県宗像郡赤間村(現宗像市赤間)で藍屋を営む父藤六、母千代の間に生まれた。

6歳頃 体質は病弱だが、気の強い子供だった

  • 1891年、出光は福岡市商業学校に入学した。
  • 出光は生まれつき病弱で、医者通いをすることが多かった。薬をだけでなく母から与えられた牛乳も毎日飲んでいたため、学校ではべべ(子牛)と呼ばれていた。
  • 更に、7歳の時に草の葉で目を傷つけてしまったことがきっかけで、生涯目が悪かった。本を読む視力も、長時間読書に耐える体力もなかったため、小学校の成績は悪かった。
  • しかしその一方で、気は強かった。しつけのために父藤六や母千代が出光を倉に閉じ込めても、絶対に謝ることはなかった。逆に、母が折れて許してあげることもしばしばだった。

16歳頃 父に逆らい、勝手に高校を受験し合格

  • 高等小学校を卒業するとき、出光は商業学校への進学を希望していたが、出光に藍屋を手伝ってほしい父は、願書をこっそり握りつぶしていた。
  • それに気づいた出光は、父に無断で福岡商業学校を受験し、合格してしまった。合格した以上、父も入学を認めざるを得ず、出光はめでたく進学することとなった。
  • 出光は子供の頃に負った目の怪我のせいで、長時間読書をすることができなかった。しかし、読書の時間は短くても、「考えに考え抜く」という独自の勉強法を編み出し、成績は1年の時に2番、2年の時に1番、3,4年の時は3番であった。

21歳頃 神戸高商(現神戸大学)に入学し、人生の指針を固める

  • 福岡商業学校で優秀な学業の成績を収めていた出光は、労せず神戸高商(現神戸大学)に入学し、その後の人生を貫く指針を学んだ。
  • 神戸大学の水島銕也校長は、士魂商才を説きながら、出光を含めて生徒を我が子のように親身に世話した。学生時代に水島の親切さに触れたことが、出光の社員に対する愛情の源泉となった。
  • また、商業概論を教わった内池教授からは「消費者のニーズと生産者を結ぶ新しい商人」の必要性を教えられた。この気づきによって、出光は後に既得権益の上にあぐらをかく既存企業を次々と打ち負かし、石油業界を切り開いていくことになる。
  • また、出光の在学中はまだ石炭全盛の時代であったが、石油が今後の重要な戦略物資になることに気付いた。学生時代において、出光は既に自身の将来の指針ともいうべきものをある程度固めていた。

25歳頃 同級生に馬鹿にされても意に介さず、無名の零細企業に入社

  • 就職活動の時、出光は水島校長に紹介された鈴木商店という商社から内定をもらったが、断っている。出光が選んだのは、社員3名の酒井商店という小麦と機械用潤滑油を取り扱っている無名の零細企業だった。
  • 当時の神戸大学はエリート意識をもっている学生が多く、大手企業に就職するのが通常だった。そんな中無名の零細企業に入社した出光を、同級生たちは「学校の面汚し」「きちがい」といって罵倒した。
  • しかし出光は切望した石油を取り扱うことができ、しかも零細ゆえに色々な能力を身に付けることができるという理由で酒井商店を選んだのであった。出光は酒井商店で、骨を粉にして働き、商売の基礎を学んでいった。

26歳頃 生涯の支援者、日田重太郎から6千円の出資を受ける

  • 酒井商店で5年間ほど修業したのちに独立を目指していた出光だったが、実家の苦境から、一日も早い独立をしなくてはいけないと思うようになった。
  • 安い舶来品に押される形で、国内の藍屋は経営が苦しくなり、ついに父藤六も店を畳んでしまったのであった。
  • そんな折、神戸高商時代からの知り合いであった日田重太郎から誘われ散歩に行くと、思いがけず出資の提案を受けた。
  • 日田は出光より9歳年上の資産家の高等遊民であったが、宗像大社を信奉し、懸命に働く出光に好意を持っていた。
  • 日田は出光が独立したがっていることを知っており、3つだけ条件をつけ、出光に6千円を手渡した。

「日田は出光がやってきたことを喜び、資金を提供するに当たって三つの条件を付けた。第一は、従業員を家族と思い、仲良く仕事をしてほしい。第二は、自分の主義主張を最後まで通してほしい。第三は、自分がカネを出したことを人に言うな」
(「出光佐三 反骨の言霊」水木楊、PHPビジネス新書、2013年)

27歳頃 起業し機械油を販売するも、さっぱり売れず

  • 思いがけない出資を受けた出光は、門司の目抜き通りに事務所を構えると、兄弟と数名の従業員を雇い、日石の子会社として、機械油を販売するビジネスを始めた。
  • 出光は日田との約束を忠実に守り「大家族主義」を掲げ、出勤簿なし、タイムカードなし、クビなし、定年なし、という制度を作った。
  • しかし商売のほうはうまくいかなかった。新参者の出光を相手にする企業はおらず、営業の努力も空しく日田に貰った6千円はあっという間に減っていった。

30歳頃 海上で漁船相手に軽油を販売し活路を見出す

  • 資金が減り続ける中、出光は突破口を見出そうと苦心した。そんなある日、出光は港に停まっている発動機付きの漁船を見て、彼らに油を販売すればよいと閃いた。
  • 当時、漁船は地域で独占的な販売をできる特約店から高価な値段で灯油を買わざるをえなかった。出光はこれを軽油に変えることで、灯油の半分の価格で提供できると下関の漁師たちに提案した。
  • しかし、特約店は地域ごとに日石から独占的な販売権を与えられており、門司の特約店であった出光は下関で軽油を販売することができなかった。
  • そこで、出光はあろうことか下関の洋上で漁船を待ち構え、軽油を販売し始めた。
  • 日石から苦情がきたが、「海の上に、下関とか門司とかの線でも引いてあるのですか」と突っぱね、販売を継続した。この時から出光は海賊と呼ばれることになる。

34歳頃 暴利をむさぼる外国石油資本から、満州鉄道の発注を奪い取る

  • 1913年、出光は初めて満州を訪れた。満州鉄道が作られ、機械油の需要を見込んでのことであった。しかしまだ田舎の油売りに過ぎない出光は日本最大の企業である満州鉄道に相手にされなかった。
  • しかし、出光は諦めず翌年も満州に渡り満鉄職員と接触を試みた。
  • 当時満州鉄道は外国石油資本から高い石油を質の悪い石油を高値で買っていた。
  • 温帯で使われる機械油を売りつけられていたため、極寒の冬の満州出は、機械油が凍ってしまい、列車事故が多発していた。
  • 出光は様々な油を調合し、極寒の冬の満州でも凍らない機械油を開発した。しかも、外国石油資本の半値を提示した。
  • 小さいころから藍屋の父が色々な材料を混ぜる光景を見て育った出光は、調合することが得意であった。
  • 1919年、ついに出光は外国石油資本から、満州鉄道の石油の発注を勝ち取った。
  • 出光にとっては、満州への足がかりを作った出来事であり、満州鉄道にとっては、高値で買わされていた性能の低い石油から切り替えられた出来事であった。

39歳頃 大胆な販売店網の出店と金融危機が重なり経営危機に

  • 出光は、多様な消費者のニーズに応えたいと考えていた。
  • そのため、あらゆるところに販売店を構え、消費者接点を持つことが経営方針となった。
  • 大地域小売主義と呼ばれたこの方針によって、出光は販売店を急速に拡大した。
  • また、本社機能が肥大化し「官僚化」「既得権益化」することを嫌った出光は、社員を信頼し、販売店で権限をどんどん委譲した。
  • しかし、販売店網の拡大は出光の資金繰りを圧迫した。
  • また追い打ちをかけるように金融危機が起こり、1924年、第一銀行から25万円の借入金引き揚げ要請があった。
  • 出光は困窮極まり、自殺説までささやかれたが、二十三銀行の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱した。

49歳頃 国際石油資本の牙城である上海に日本企業として初めて上陸、奮闘

  • 出光は1934年に上海に調査員を派遣すると、当時上海に進出していた有力な国際石油資本であったスタンダード、アジア、テキサスの3社に対して進出を堂々と宣言した。
  • しかし3社は出光が成功するとははなから思っておらず、何の反応も示さなかった。
  • 当時、石油を販売するためには危険品倉庫を持たなければならなかった。
  • 国際石油資本は、当時の中国政府に圧力をかけ、危険品倉庫地帯を極端に狭く指定させ、米英企業がそれら地帯をほぼ独占していた。
  • そして、その他の国が運よく危険品倉庫を入手して石油を販売しようとすると、その地域にだけダンピングをしかけ、締め出してしまうのであった。
  • 出光が派遣した調査員は、半年間駆けずり回り、手つかずの危険品倉庫地帯を探し、競合に気づかれないよう秘密裏に土地を入手し、倉庫を建設した。
  • あまりの困難さに帰還したいと出光に告げても、出光はそれを許さず、諦めなかった末の成果であった。
  • 倉庫を建設し、日本から灯油を入れると、それを取り扱いたいという現地の特約店が殺到した。
  • それまで独占的な地位に甘んじて暴利をむさぼっていた国際石油資本に挑戦する出光という小さな企業と、彼らがもたらす安い油を、現地の人は歓迎したのであった。
  • 国際石油資本は出光の灯油が販売される地域でダンピングをしかけ、出光をつぶそうとした。
  • それに対して出光は、ダンピングをされた地域からはすぐに引き上げ、出光社員が新たな場所で販売するというゲリラ戦法を取った。
  • 外国石油資本は、神出鬼没な出光の動きに対応しきれないばかりか、出光の販売に合わせてダンピングすると全地域で安値の販売を強いられることになるため、結局出光の販売を黙認せざるをえなくなった。
  • こうして出光は、それまで国際石油資本が独占していた上海でも、商売を始めることとなった。

57歳頃 戦時中、南方占領地に出光社員166名を派遣し民間の石油調達を行う

  • 第二次大戦中の出光は、日本の南方の占領地で、民需用の石油を調達する役割を担った。
  • 当初軍の上層部は2500人程度の巨大組織を作ることを目論んでいたが、出光は大地域小売主義で鍛えられた出光社員ならばその10分の1の規模で機能すると進言。
  • 結果、1942年に166名を占領地域に派遣し民需用の石油を無事調達した。

60歳頃 終戦とともに全てを失い膨大な借金を背負うも、1000人の社員をクビにせず

  • 戦前出光は、社員の大半が海外にいるグローバル企業であった。
  • それが、終戦によって中国大陸37か所、東南アジア6か所、朝鮮、台湾にあった拠点を全て失った。
  • また、石油はGHQの占領政策により規制され、全く販売できなくなった。
  • 出光には260万円の膨大な借金だけが残った。
  • 1000人もの社員を雇う余裕は全くなくなった。
  • そもそも仕事がなかったが、「大家族主義」を掲げる出光は、すぐさま、全社員を一人もクビにせず雇用し続けることを宣言。
  • 急場をしのぐため、旧海軍タンク底油集積事業、ラジオの修理販売、印刷、農業、漁業、醤油食酢の製造となんでもやった。
  • その後、石油の小売、元売りが許されるとともに徐々に事業を畳んでいくが、旧海軍技師を雇ってラジオ修理店を全国に沢山配置したことが、その後の小売店の基礎となった。
  • 「重役会の決議で一応全部やめさせて、そのうち出光再建のために必要な人を何人かとろうじゃないかといってきた。わたしは、それはいかん、社員は解雇しないという主義だから、こういうときこそ実行しなければ駄目だといった。ところがこれを聞いた重役連中は、わたしの考えはおかしいと思ったらしい。しかしわたしはこういう辛苦を重ねてきたこの人たちこそ、必ず将来、なすことのある人だと信じていた。事業はすべて人間が基礎であるという主義でやってきたから一人の人員整理もしなかった」

62歳頃 石油業界旧勢力の妨害工作に負けず、石油小売業に復帰

  • 1947年10月、石油配給公団が設立され、全国の出光29店も公団販売店として指定された。
  • 販売店指定に際しては、新興の出光に反感を抱く石油業界旧勢力が出光の指定を阻止する動きを見せたが、GHQ内部の出光理解者による公正な措置でその策動は封じられ、出光の石油業復帰が実現した。

63歳頃 日本でただ一社、国際石油資本の傘下に入らない石油元売業者になる

  • 1949年3月、石油配給公団が廃止され、元売制度が発足した。出光は、スタンバック、シェル、カルテックス、日本石油、日本鉱業、昭和石油、三菱石油、ゼネラル物産、日本漁網船具とともに元売業者に指定された。
  • しかし当時の日本企業には海外油田も、製油所もなかった。
  • そのため国際石油資本の資本を受入れて支配されることになった。
  • そして日本市場には、高価で品質の劣る石油製品が、大量に出回ることになった。
  • 出光はただ一社、資本提携を拒み、メジャーと対等の関係を主張し、傘下に入らなかった。
  • 全ての製油所は自社以外の元売り業者にも石油を供給しなければいけない「ジョイントユース制度」というのがあったため、当座は他の外国石油資本や傘下の元売りから分けてもらうことができたが、このままではじり貧になることが明白だった。

66歳頃 日本の石油会社として常識破りのタンカー保有

  • 外国石油資本やその傘下の製油所からの石油輸入に依存しなくて済むよう、出光は奇想天外な構想を考えた。
  • それは、出光が自らタンカーを保有運行し、世界から石油を輸入するというものであった。
  • 出光がさらに世間を驚かせたのは、そのタンカーが非常に大きいことであった。
  • 播磨造船所に依頼し、世界最大級のタンカーを造らせた。
  • 1951年9月、第二日章丸と名付けられたこの船は完成した。
  • 第二日章丸はすぐに米国に向けて発ち、現地で業者を訪ね歩くと、ガソリンの買い付けに成功した。
  • 出光は日本の石油会社で初めて、自力で石油の輸入に成功したのであった。

67歳頃 日章丸事件 – イギリス喧嘩を売りイラン産原油を輸入 –

  • 1951年、イランはクーデターに伴い、英国のアングロイラニアン社が権益を持っていた油田を収用した。
  • それに対して英国は艦隊を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明した。イランは石油の売り先を失い、経済的に困窮し始めていた。
  • そんな国際情勢の中、ある日出光はイラン石油の売買契約を決める権限を持つイラン人を紹介された。遥か極東の日本にまで売り込みに来ていたのであった。
  • 出光は、検討に検討を重ねた。英国が強硬策に出れば一貫の終わりであったし、米国の反感を買えば、圧力をかけて潰される可能性があったためである。
  • 出光は検討に検討を重ね、英国が強硬策に出る可能性が下がってきたこと、米国の干渉が入らないことを慎重に見極めると、ようやくタンカーの派遣を決定した。
  • ところが、撃沈のリスクや、国際石油資本からの発注が来なくなるおそれがある中で、出光のためにタンカーを出してくれる海運会社は一社もなかった。
  • 当初はタンカーを出してくれると言っていた飯野海運も、直前になって断りを入れてきた。
  • 万事休すかと思われたが、出光は自社が持つ虎の子の日章丸を派遣することを決断した。
  • 日章丸は出光が石油を自ら調達する唯一の手段であった。
  • もし拿捕、最悪の場合撃沈されることがあれば、大きな減収となるおそれがあったが、「海賊」出光は、日章丸を秘密裏にアバダン港に向かわせた。
  • 1953年3月に日本を発った日章丸は英国の艦隊に発見されないよう慎重に航行し、4月、アバダン港に入港した。
  • そして、軽油約2万2000キロリットルを搭載し、5月には川崎港に無事帰港した。
  • イギリスに喧嘩を売って自分の方針を貫いた出光は、戦争に負けて自信を無くした日本国民の喝采を浴びる事になった。
  • また、イギリスにさんざん搾取され苦しめられていたイラン国民に大きな勇気を与える事となった。
  • なにせ、イラン産の石油を買ってくれたのは、戦争に負けたばかりの日本の一企業、出光だったのである。
  • アングロイラニアン社は積荷の所有権を主張し、すぐさま出光を東京地裁に提訴。
  • しかし東京地裁は仮処分申請を却下。やがてアングロイラニアン社が提訴を取り下げ、出光側の完全勝利となった。