本庄正則 伊藤園創業者

実業家

江⼾時代から脈々と続いてきた茶葉業界の中で、わずか40年で国産茶葉の約20%を取り
扱うまでに成⻑した「業界のベンチャー」伊藤園を創業した本庄正則。彼の人生の岐路を振り返る。

幼少時代

0歳 兵庫県神戸市で誕生

  • 1934年、本庄は、父源次、母アツ子の長男として兵庫県神戸市に生まれた。後に共に起業する弟の八郎は1940年に生まれた。

学生時代

19歳頃 一浪して早稲田大学第一文学部に入学

  • 本庄は神戸市内の湊川高校に通っていたが、大学受験では早稲田大学を受験し、失敗。
  • やむなく浪⼈し、早稲田大学の第⼀⽂学部に⼊学した。
  • ⽗源次が軍⼿製造会社の社長だったため、⼤卒初任給が1万円だった時代に、毎⽉2万円の仕送りを受けていた。
  • 検察官になりたかった本庄は、三年⽣になるとき、第⼀法学部に転部し司法試験の勉強に打ち込んでいた。
  • ところが、ちょうどその頃に状況は⼀変する。⽗親が知⼈の連帯保証⼈を引き受けたことで多額の借⾦を背 負い込み、家も財産もすべてを失ってしまった。学費と⽣活費を捻出するため本庄は、学業のかたわら毎晩、沖沖仕(港湾労働者)として深夜まで働いていた。
  • 結局勉強に打ち込む時間も取れず、新聞社も受けたが全滅。日産のディーラーに就職することになった。

23歳頃 日産の自動車販売店に入社

  • 日産自動車販売に入社した本庄は、両親と弟八郎の⾯倒を見るため、がむしゃらに新⾞を販売した。
  • 本庄の販売方法は、創意工夫に満ちていた。都内で園児の数が百⼆⼗⼈以上いる幼稚園を調べ、しらみつぶしに回り、送迎⽤のバスを売り込んだ。商談の際は、単にバスを売り込むのではなく、銀⾏の⽀店⻑と単⾝かけ合って、そのための融資も取り付けていた。また、それと同時に幼稚園の経営者には乗⽤⾞も売り込んでいた。
  • 大量の新車を売りまくる本庄は、とても一人では手が回らなかった。そこで、会社に無断でアルバイトを雇い仕事を回していた。
  • そうして、⼊社4年⽬には年間407台という販売台数を記録し、トップセールスになっていた。
  • しかし、トップセールスになった頃、本庄は独立することを決意。そこには、2つの気持ちがあった。一つは、このままトップセールスを続けられるか、という不安。もう一つは、人の下について一生を終えたくないという気持ちだった。

「トップになりました。しかし、これで⾃信がついたかというと、逆でした。⽣活は豊かになったし、親せきなどにもお⾦を出してあげられるようになった。ところが、同時に「トップセ ールスをいつまで続けられるのか」とか、「もし売れなくなったら、今の⽣活を維持できるのか」といった不安が頭をもたげてきました。⼼配が⾼じて、たいした計画もなく作ったのが伊藤園の前⾝の⾷品販売会社「⽇本ファミリーサービス」です」

(商⼈精神でお茶に⾰命(1)伊藤園社⻑本庄正則⽒(⼈間発⾒) 1999/02/22 ⽇本経済新聞)

「⾃分でアルバイトを雇い、年間四百台以上売りました。貯⾦もできたし⼟地も買った。でも偉くなりたかった。このままでは⼀⽣売り⼦で⼈の上には⽴てない、ならば商売をしようと思ったんです」

(【転機】伊藤園会⻑ 本庄正則⽒ 「冷えた緑茶」が認知され 1999/03/22 産経新聞)

30歳頃 日本ファミリーサービスを設立するも、事業失敗

  • 64年、本庄は⾃動⾞セールスで蓄えた資⾦を元⼿に、伊藤園の前⾝となる⽇本 ファミリーサービスを設⽴した。
  • 何をするかについて思索を巡らせた結果、前職とかち合わず、誰もが消費する商品である食品がいいと考え、食料品や調味料の卸売業を始めた。
  • 富⼭の薬売りを参考に、団地を中心に客の家に⾷品を届け、⾷べた分だけ代⾦を貰う商売を始めたが、昼間は留守の家庭が多く回収が難しかった。さらに、それに、ちょうどスーパーが本格展開を始め、競争環境が厳しくなったため、三カ⽉で⾒切りをつけた。
  • ⾒切りをつけて⾷品の三次問屋に転換した。しかしこちらも利幅が小さすぎて儲からなかった。
  • 唯一希望が持てたのは、パックのお茶だけは利益率が良かったことだった。3次問屋を初めて3か月、本庄はお茶専業でやっていく決心をつけ、会社を畳んだ。

「扱った商品の中で⼀番利益率の⾼かったのがパック詰めした包装茶でした。当時で20%ほどのマージン (利ざや)があった。それならいっそのことお茶をやろうか。なんとも単純な理由でお茶専業に切り替えたのです」

(フォーカスひと-⼈物-売上⾼1300億円の飲料メーカーを育てた 本庄 正則 ⽒- 事業失敗、詐欺、胃ガン乗り越え成功 28年前、後輩⼩渕⾸相に助けられる 1998/09/14 ⽇経ビジネス )

32歳頃 フロンティア製茶を創業

  • 伊藤園の前身「フロンティア製茶株式会社」を静岡県静岡市に設立した。
  • 従来の量り売りではないパック茶を販売することで、スーパーでリーフ製品がほかの食品と一緒に販売されるようになり、1968年茶業界で売上高トップに成長した。

35歳頃 伊藤園に商号を変更、手形詐欺で大きな借金を背負う中で勝負

  • 1969年、本庄は販路を更に開拓するため、上野にある老舗「伊藤園」から、商号を200万円で買い取った。
  • 同時期に、本庄は4000万円の手形詐欺に遭っている。銀座のビルを借りて店を構えた相⼿に品物を卸したところ、現金払いだった支払いがやがて⼿形になり、手形も遅延が続き、結局倒産してしまった。創業したての本庄には大きすぎる痛手だった。本庄は金策に奔走し、妻の着物まで売るほど困窮した。
  • その中での200万円ののれん代は大きな出費だった。本庄は埼⽟県川⼝市郊外に、⽵やぶに囲まれたバラックを事務所として、社員5名で勝負に出た。

「事務所の2階が社員寮で、隣のボロ家はすでに結婚していた私たち夫婦と⾚ん坊 の住まいです。家内の作った朝飯をみんなで⾷べて営業に⾏くという共同⽣活で、⾦はないけど怖いものもなかった」

(フォーカスひと-⼈物-売上⾼1300億円の飲料メーカーを育てた 本庄 正則 ⽒- 事業失敗、詐欺、胃ガン乗り越え成功 28年前、後輩⼩渕⾸相に助けられる 1998/09/14 ⽇経ビジネス )

37歳頃 事業が成長し、東京都新宿区に本社移転

  • 1970年、本庄は早稲田大学の後輩で、国会議員になったばかりの⼩渕恵三と出会った。本庄は会社がどうなるかわからない状況で小渕に迷惑がかかることを危惧し固辞したが、結局500万円を出資してもらっている。⼿形詐欺の影響で銀⾏が融資を渋っていた中での天祐だった。
  • 従来、茶葉は、⽣産者から産地問屋、地⽅問屋、専⾨⼩売店まで、販売ルートが硬直的に固まっており、入り込む隙がなかった。
  • しかし、本庄が手掛けた袋詰めは、⼀般の⾷品店を相⼿に商売ができ、こうしたしがらみにとらわれずにどんどん販路を開拓できた。
  • 販売⽅法も⾃動⾞ディーラー時代に勉強したルートセールスを導⼊し、まず本社に近い埼⽟県川⼝市の⾷品店に売り込んでいき、徐々に拡大していった。そして、フロンティア製茶を設立してから5年が経過した1971年、新宿に本社を移転した。

「しだいに東京にも販売店が増えていき、川⼝からでは配送が難しくなったので⾚⽻に拠点を設けた。そこでも販路が広がり、新しい店をつくる、という具合に⾃然体で販売網を広げてきたわけです。⾃信がついてきたのは五年⽬あたりですかね」

39歳頃 新工場を建設したところに石油危機が直撃し最大の危機に陥る

  • 1973年、伊藤園は売上が33億円という規模まで成長していた。売上と同額程度の借金があったものの、緑茶業界に後発で参入した後れを⼀気に取り戻そうと、本庄は工場の新設を行う。
  • 静岡県の牧野原台地に、5億円を投資し、当時再新鋭の設備を導⼊した「相良⼯場」を着⼯した。
  • しかし、運悪くそこに石油危機が訪れた。
  • 身の丈を超えた投資をした伊藤園はたちまち資⾦繰りが苦しくなった。翌1974年、ついに倒産の危機がやってきた。1か月後に期限が迫っている2億円の⼿形がどうしても落ちない。本庄はそれから1カ⽉間、毎日銀⾏に通ったが、決済⽇の前⽇になっても銀⾏から融資は得られなかった。
  • そして決済⽇当⽇。本庄は単身熱海にゴルフに出かけた。運を天にまかせるしかなかったからだ。
    しかし、本庄の1か月に渡る交渉が実を結び、正午きっかりに⼆億円が振り込まれた。
  • こうして伊藤園は最大の危機を脱したが、この経験が、その後の本庄の慎重な経営姿勢を作っていったと言われている。

45歳頃 中国土産畜産進出口総公司と日本で初めてウーロン茶の輸入代理店契約を締結

  • 緑茶の茶葉事業で成長軌道に乗っていたころ、本庄は当時殆どの日本人が飲んだことのなかったウーロン茶を飲む機会に恵まれた。日本人の食事が西洋化していた中で、ウーロン茶のさっぱりとした味わいがマッチすると直感した本庄は、その事業家の機会を探っていた。
  • そんな折、1970年代前半、日中国交正常化をきっかけとして、中国の食品使節団が伊藤園の静岡にある製茶工場を訪れた。
  • そこで懇意になった福建省出⾝の副団⻑からウーロン茶を勧められ、福建省から独占販売権を得て、1年目が2億円、2年目が3億円、3年⽬が4億円の総代理店契約を締結した。当時日本ではウーロン茶を飲んだ人が殆どおらず、市場は全くできあがっていなかった。その上決められた金額は買い取らねばならない契約なので、リスクは⼤きかった。
  • ウーロン茶の売り先の一つは、夜のお店だった。夜のお店で客の相手をする女性は、お酒の代わりにウーロン茶を飲めば酔うこともないし、安いウイスキーでもウーロン茶で割れば、美味しくなると言って、取引先を増やしていった。
  • また、サントリーなどの⼤⼿飲料メーカーに茶葉を供給した。こうした企業の力も借りたことでウーロン茶の市場が出来上がり、日本における「ウーロン茶のパイオニア」として伊藤園は⾃社ブランドでも販売ができるようになった。

47歳頃 缶入りウーロン茶を全国で発売

  • ウーロン茶の茶葉の販売は大ヒットしたため、本庄はこれをブームのままで終わらせないため、⽸⼊りウーロン茶を開発させ、1981年3月に全国発売した。
  • 缶入りウーロン茶は、世界初の試みであった。また、当時の清涼飲料は炭酸飲料や果実飲料など甘いものが主流であったが、伊藤園のウーロン茶は“無糖飲料”という新たなジャンルを作りだした。
  • これが大ヒットとなり、「夏場にお茶を冷やして飲む」という飲み方が一般に浸透していった。

51歳頃 缶入り緑茶を販売開始

  • 缶入りウーロン茶の開発に着手するより前の1977年、本庄は缶入り緑茶の開発に着手している。
  • 缶入り緑茶は缶入りウーロン茶の開発よりも技術的なハードルが高かった。ウーロン茶は半発酵茶であるため、⽸⼊りにしても成分が変わらない。しかし緑茶は未発酵で、タンニンが酸素に反応して発酵してしまうため、⽸⼊りにすると⾚く変⾊してしまう。発酵を防ぐために酸素を抜き代わりに窒素を入れてみると、焼きイモのようなにおいがしてとても飲めない。
  • 結局、においを完全に消す技術開発に8年もの歳⽉がかかった。そして、1985年、ようやく缶入り緑茶が完成した。
  • ⽸⼊り緑茶の発売を、多くの人々が疑問視した。「緑茶は急須から注いで温かいまま飲むもの」「お茶は無料」という固定観念が、根底にあった。その緑茶を⽸に⼊れて冷やし、1杯百円で売るというのだから、理解が得られないのも無理はなかった。
  • しかし、本庄には勝算があった。⽸⼊りウーロン茶の⼤ヒットで「お茶は冷やして飲むもの」という消費者の認識ができつつあった。また、お茶はコーヒーよりも原価が高かった。これを正当な値段で販売したいという想いがあった。

「「何とかして新しい商品を出 さなくては」という苦し紛れの⾯があったことは確かですが、それよりも「正当な値段で売りたい」という“商⼈魂”が⽸⼊りに執着させたと⾔えるのではないでしょうか。」

(商⼈精神でお茶に⾰命(3)伊藤園会⻑本庄正則⽒(⼈間発⾒) 1999/02/24 ⽇本経済新聞)

  • 缶入りウーロン茶に続き、缶入り緑茶も大ヒットとなった。この2つの商品が原動力となり、いちベンチャーだった伊藤園は飲料業界の1角を占める存在に成長した。

54歳頃 弟の本庄八郎に社長を譲り会長に

  • 1988年5月、まだ54歳だった本庄は、6歳年下の⼋郎に社長を譲り、自らは会長に退いた。
  • 弟の八郎は企業当初からの苦楽を共にした仲で、最も信頼できる部下だった。また、飲料の主要顧客が40代以下であったため、若い八郎に社長を譲りたいと考えての決断だった。

「弟が40代のうちに社⻑にしようと思いましてね。最も信頼できる部下ですし。それに飲料を買ってくださるのは40代までが中⼼、⾃分がいつまでも社⻑をやっていては判断が鈍る、という気持ちもありました。⼀歩離れたところから会社を⾒ると、⽋点が⾒えるようになってきました」

(【転機】伊藤園会⻑ 本庄正則⽒ 「冷えた緑茶」が認知され 1999/03/22 産経新聞)

64歳頃 東証一部に上場

  • 成長著しい伊藤園は1992年、株式を店頭市場に登録。1995年に売上高1000億円を突破すると、翌1996年に東証2部上場。そして1998年、東証一部に指定された。

68歳頃 呼吸不全のため死去

  • 2002年、本庄は呼吸不全のため自宅で息を引き取った。