三木谷浩史 楽天創業者

実業家

エリート銀行マンという肩書を捨てて、起業し、日本最大のECサイト楽天を創業した三木谷浩史。彼がどのような人生を歩んできたのか、振り返る。

幼少時代

0歳頃 兵庫県神戸市にて出生

学生時代

  • 小学校での先生からの評価は全く褒められるようなものではなく、学校の成績は五段階中2か3ばかりだった。
  • 成績表にある教師の所見の欄には以下のような評価が書かれていた。

・「直観力にすぐれていてぱっと気が付くのですが、そのあとじっくり考えることがないので、考えが深まってきません」
・「授業中落ち着きを欠く」
・「学習中の姿勢がやや悪い」
・「服装をきちんとしている時が少ない」
・「身の回りの整理整頓に気をつけさせてください」
・「ノートの利用が少し乱暴」
・「忘れ物が少し多い」
・「人の話を聞いていない」
(出典)「問題児三木谷浩史の育ち方」山川健一(2018)幻冬舎

  • この評価に対して三木谷は以下のように振り返っている。

子供の頃からよう人の話を聞くいい子で、成績もよくて、行儀もよくて・・・そんなやつは、大成しないと思います。小学校の時に人の話を聞いてるやつなんか、駄目なんじゃないかと思います
(出典)「問題児三木谷浩史の育ち方」山川健一(2018)幻冬舎

8歳頃 小学2年の時、親の都合でアメリカへ渡る

  • 経済学者だった三木谷の父親がイェール大学に勤めることになったため、三木谷も渡米し、アメリカで2年間を過ごすことになった。
  • アメリカの小学校に初登校した時、両親は英語を全くしゃべれない浩史を心配していたが、心配する両親をよそに、浩史は登校したその日にアメリカ人の友達を家に連れてきた。

 アメリカ旅行で、自分の知っている世界がいかに狭いのかを痛感する

  • 家族でアメリカ東海岸~西海岸までを車で旅行した。
  • この時、三木谷は、世界の広さに衝撃を受けた。世界は自分が知っている小さな範囲だけではなく、途方もなく広がっているのだ、ということを痛感する。

 帰国後、しばらくして全寮制の岡山白陵中学でスパルタ教育を受ける

  • 三木谷は、アメリカから帰国後、日本の小学校に戻って卒業し、中高一貫全寮制の岡山白陵中学に入学した。
  • 当時、岡山白陵中学は、英語のテストで80点未満だと、マイナス5点ごとに竹刀で一発ずつ尻を叩かれるなどとても厳しい学校だった。
  • 学校が終わっても平日は夜7時半から11時まで自習が必要という環境で、放任主義で育った三木谷は全くなじめないように見えていた。

13歳頃 中学2年になる時、岡山白陵中学を自主退学し、公立の中学に転校

  • 週末になって寮から実家に戻ってくるたびに表情が暗くなる三木谷に、両親は心配して声をかけていたが、三木谷は「この学校で頑張る」と答え続けた。
  • しかし、2年生になったある週末「学校をやめたい」と告げた。

父親に辞めたい旨を伝え、3分で話が決まり、10分後には父親が理事長に電話「うちの息子、辞めるゆうてますからやめさせますわ!」
(出典)「問題児三木谷浩史の育ち方」山川健一(2018)幻冬舎

  • 公立中学では小学校時代を彷彿とさせる生活態度で、タバコやギャンブルなどに手を出した。
  • 高校2年までそのような状態が続き、成績も悪く、頻繁に遅刻・欠席を繰り返していた。
  • 特に歴史を苦手としていた。

なぜ歴史を勉強しなければならないのかよくわからなかったんです。なぜ年代を覚えなくてはいけないのかが、わからない。歴史のストーリーはいいと思うんです。でも年代は・・苦手でした。覚えるのが苦手なんですよ。たぶん脳が意味のないことは覚えない構造になっているんです。いまだに自分の携帯の番号を覚えてませんから。テニスの球拾いをはじめ、自分が何か嫌だなと思ったことに対して、強く拒否感があったんでしょうね。歴史の授業中はほかのことをやっていました。『少年ジャンプ』や『少年サンデー』などの漫画を読んだり
(出典)「問題児三木谷浩史の育ち方」山川健一(2018)幻冬舎

15歳頃 進学校の兵庫県立明石高校に入学

  • テニス部に所属するも、新人は球拾いという文化に疑問を持ち、早々にテニス部を退部。プロを目指すため、宝塚テニスクラブに入り、本格的にテニスの道に突き進む。
  • 一方、学業は高校2年の途中まで真面目に聞いておらず、成績も下から数えてすぐのところに三木谷の名前があった。
  • しかし、高校二年の大会で優勝できず、大学受験の勉強に専念することを決意する。

テニスのプロになるか、就職するしかないなと本気で思ってました。大学受験なんて不可能だと思い込んでいましたから
(出典)「問題児三木谷浩史の育ち方」山川健一(2018)幻冬舎

18歳頃 一橋大学経済学部の受験に失敗し、浪人

  • 三木谷は、商学部を受ければ合格できる成績だったにも関わらず、やりたいことは経済学部にあるという理由で経済学部を受験して落ちてしまう。
  • そして翌年、今度は商学部の偏差値が経済学部の偏差値を上回る年に、金融をやることにしたという理由で難易度の高い商学部を受験する。

19歳頃 一橋大学商学部入学

  • テニス部に入部し、勉強をせず、鬼主将と呼ばれるほどテニスに熱中した。

社会人時代

23歳頃 日本興業銀行に新卒入社

  • 三木谷は、三菱商事、住友銀行からも内定をもらっていたが、それらを断り、興銀に入行した。
  • 名古屋での支店勤務を経て、本店外国為替部に所属した。

26歳頃 ハーバード大学へ社費留学、同時に結婚

  • 興銀の同期40~50人が社費留学制度に手を挙げる中、三木谷のみハーバード大学への社費留学が決定する。
  • 同時に、当時付き合っていた相手と結婚する。

ここで分かったことは、日本と違いアメリカでは優秀な人間ほど自分で起業したり、見どころのある小さな会社に入ったりするということ。
ここで自分の人生観が変わった。

28歳頃 MBAを取得し帰国

  • 帰国後金融開発部になり、M&Aを担当し、三木谷は周囲が案件なし状態の中、唯一稼ぎまくっていた。
  • その時のお客さんがソフトバンクの孫正義、パソナの南部靖之、CCCの増田宗昭であった。
  • しかし、三木谷は興銀マンとして、輝かしい成績を成し遂げる中、既に独立することを決めていたという。

「すでに独立の決意はしていましたが、それには興銀に留学の借りを返さなけらばと考えて、働き続けていました。」
一方で三木谷が感じていたことは、「俺が頭取になる頃、この銀行はない」理由は社員の目が生き生きしていなかったから。
「とはいえ僕も、ハーバード大に行くまでは銀行員以外の人生なんて考えられなかった。信仰をしているような状態でした。それが外に出てみて、『あっ、これっておかしいのかな』と思い始めたのです。」
(出典)「問題児三木谷浩史の育ち方」山川健一(2018)幻冬舎

30歳頃 阪神淡路大震災を機に、興銀を退職

  • 三木谷は、阪神淡路大震災で、祖父母を亡くしたことと、多くの惨状を目の当たりにし、興銀をやめる決意をする。

経営者時代

30歳頃 クリムゾングループ設立

  • 三木谷は、興銀を退職後、クリムゾングループというコンサルティング会社を設立。
  • このコンサルティング業で得た6000万円の軍資金が次に起業する株式会社楽天の設立原資となる。

もともと、コンサルティングを続ける気はなく、新しいことをやろうと100のビジネスを考えていた。
その中で残った三つが、地ビール屋、パン屋のフランチャイズ、インターネットビジネス。これから進歩していくネットワークを使うビジネスであれば、飽きやすい僕もずっと知的な挑戦が続けられると思った。「誰もが否定的なので、逆にイケると思った」
(出典)「問題児三木谷浩史の育ち方」山川健一(2018)幻冬舎

32歳頃 エム・ディー・エム(現在の楽天)を設立

  • 三木谷は、1社目を起業して2年後に、インターネット上で物を販売するECサイトを運営する会社を設立する。
  • 楽天市場開設当時は、非常に苦労し、本当にやっていけるのかと弱気になることもあったという。
  • その理由は、当時インターネットで買い物をするということが全く浸透しておらず、購入者はいなかった。
  • 楽天市場の売り上げが月に数十万円に到達した時も、その購入者のほとんどは社長の三木谷が買ったものだった。

 その後、楽天は三木谷のリードの元、売上1兆円の企業に成長

  • 三木谷はその後、興銀とハーバードで学んだビジネススキルと豊富な人脈によって楽天をけん引し、金融・通信・その他サービスを提供する企業に育て上げている。
  • 世界的に有名なサッカーチームやバスケットボールチームのスポンサーになるなど、世界でもその知名度を高めているのは、他の日本のIT企業にはできない技かもしれない。
  • また、三木谷は、会社の公用語を英語にしたり、EC事業からクレジットカード業に参入するなど、外野から無謀だと言われるようなことを挑戦によって乗り越えてきたが、保守的に構える日本企業に疑問を呈すなど、日本を変えようと動き続けている。

日本の企業は世代間抗争になっています。上のほうにとっくに役割を終えたお年寄りが余っていて、そのポジションを守るために可能性のある若い人たちが働かされている。こんな図式はもう成立しないですよ。部長の首を切れば新人を五人くらい雇えるのに、それをしない
(出典)「問題児三木谷浩史の育ち方」山川健一(2018)幻冬舎