市村清 リコー創業者

実業家

リコーを創業した市村清。有り余るバイタリティで、貧しい出自から様々な事業を興した彼の人生を振り返る。

幼少時代

0歳 佐賀県三養基郡北茂安村(現みやき町)市原で誕生

  • 市村は1900年に佐賀県三養基郡北茂安村(現みやき町)市原で、父豊吉、母ツ子の長男として生まれた。
  • 父豊吉は元士族だったが、貧農の養子に入ったため、家は貧しかった。しかし、武士道に親しみ、読み書きもできる男だった。

学生時代

7歳 小学校に入学、貧しい中で首席を取り続ける

  • 市村は1907年に地元の北茂安小学校に入学した。貧しい中にあっても、父豊吉は市村に進学を勧めたためだ。
  • 市村が小学生だった8歳の時、母ツ子が父豊吉とけんかをして家を飛び出したことがあった。子供たちに食べさせる食料がないことが理由だった。それほどまでに市村の家は貧しかった。
  • 毎年秋冬になると、父豊吉が泥まみれになりながら蓮根堀りをして家計を支えた。最底辺の貧農がする仕事をする父の姿を見て、市村は子供ながらに哀れみを感じた。
  • 9歳の頃、祖父が市村のために牛を買ってくれた。それを育てやがて数を増やし売ることで、市村の学費を稼ぐためだった。ところが税金が払えない市村家からの取り立てとして、執達吏が牛を持って行ってしまった。大好きな祖父が無理をして買ってくれた牛を連れて行かれる不条理を、市村は子供ながらに心に刻み込んだ。
  • 貧しさが恥ずかしかった市村は当初学校が好きになれなかったが、頭脳は明晰で、入学から卒業まで首席をとり続けた。また、わんぱくな一面もあった。

13歳頃 県立佐賀中学に入学、しかし2年生で中退

  • 秀才だった市村は、1913年に県立佐賀中学に入学した。
  • 貧しい家計から、母ツ子は反対であったが、父豊吉と小学校側が市村の進学を望んでいたため、受験し、見事合格した。当時、北茂安村から6年生で佐賀中学にストレートで合格したのは市村が初めてだった。
  • ところが、案の定学費は払えなかった。結局、伯母に制服や教科書を買ってもらい、伯母の家から通学することとなった。
  • しかし、伯母家族とは一緒に食事はできず、お手伝いと板の間で食べる暮らしだった。また、伯母の養子となった義兄と折り合いが悪く、中学2年の夏休みに市村は伯母一家を飛び出してしまった。そして、二度と伯母一家には戻らず、せっかく入った佐賀中学も中退してしまった。

佐賀で野菜売りや銀行の見習いをしていた時代

14歳頃 佐賀で野菜売りをする

  • 中学を中退してしまった市村は、生家に戻って家の農作業の手伝いとして野菜売りを始めた。
  • 午前中は畑仕事をして、午後からは野菜を久留米の卸売市場に売りに行った。野菜を売りに行くとき、久留米の学校に通っている級友たちが下校するのとすれ違うのが恥ずかしかった。彼らはきれいな制服を着ているのに対し、市村はボロボロの野良着を着ていた。
  • 市村は級友たちと会わずに済むよう、朝に野菜を売ることにした。「とれたばかりのダイコンやあ、ニンジーン」と声を上げながら通りを歩くと、卸売市場より高く買ってくれ、いい収入になった。

16歳頃 共栄貯金銀行久留米支店に事務見習いとして採用される

  • 市村が16歳の頃、市村の中学中退の責任を感じていた義兄が、就職先を紹介してくれた。その結果、市村は共栄貯金銀行久留米支店に事務見習いとして採用された。
  • 初めの二年間は煙草を買いに行かされたり、靴についた泥をとらされたり、まともな仕事はさせてくれなかったが、2年ほど真面目に働くと、伝票の付け方を教えてくれるようになった。

東京で銀行員と学生をしていた時代

19歳頃 東京で銀行員と夜間大学の二足の草鞋

  • 久留米で3年ほど銀行で働いた市村は、次第に自分の学問のなさを痛感する場面が増えてきた。
  • そこで、父豊吉、自分が務める銀行の支店長に東京で学びたいと相談してみたところ、東京にある支店で働けることになった。実は、これは義兄が裏で口利きしていたからであった。市村の中学中退がずっと心残りだった義兄は、最後まで面倒を見ようとしたのであった。
  • 19歳になった市村は、無事東京支店で務めながら、中央大学入学に向けた勉強を始めた。日中は銀行業務を行いながら、夜は予備校に通った。そうした努力が実り、無事一年で中央大学専門部法律学科に合格した。

中国で銀行員として働いていた時代

22歳頃 中央大学を中退し中国の大東銀行に入社

  • 市村が大学で学んでいたころ、市村が務める共栄中央銀行が中国に合弁の大東銀行を設立する話が持ち上がった。
  • 大学卒業を目前に控えていた市村だったが、この機を逃すまいと、中国行きに立候補すると、それが認められた。こうして、あれほど苦労して入学した大学をあっさり辞め、中国に渡った。

24歳頃 経営の才能を開花させ取締役へ承認

  • 大東銀行の経理係として北京に赴任した市村だったが、その後、上海分行に移ると経営手腕を発揮。できたばかりの大東銀行は預金調達に苦労していたが、市村の発案で宝くじ付きの再建「彩雲」を売り出すと、中国人の好みに合い、ヒットした。市村は、会計主任、支店長代理、取締役と出世していった。

25歳頃 松岡幸恵と結婚

  • 欲望の町上海でも休日は真面目に読書をして過ごしていた市村の元には、いくつか縁談が舞い込むようになった。結局市村は、風邪をひいた時にお世話になった医師の娘であった松岡幸恵と結婚した。

どん底を味わった時代

27歳頃 昭和恐慌で大東銀行が潰れる

  • 1927年、昭和恐慌が起こると、大東銀行の親会社である共栄貯金銀行が倒産した。そして、その子会社である大東銀行も倒産した。
  • 新婚で仕事も順風満帆だったはずの市村は突然無職になってしまった。

27歳頃 横領の嫌疑で留置所に入れられる

  • 悪いことは重なるもので、ある朝いきなり上海領事館司法部に寝込みを襲われ、市村は留置場に放りこまれた。日本人から送金依頼のあった預金を横領している疑いがあるためだった。
  • 市村は、何もない独房の中で少しでも楽しく過ごそうと、煤を集めて将棋作りを楽しんだりしていた。
  • しかし、拷問のため吊るされたうえに、からだに南京虫を這わせるという拷問を受けた時は、さすがに失神した。
  • 嫌疑がはれ、釈放されたのは半年も経ってのことだった。

この時の監房生活で私が得た貴重な体験は、人間は何もないところでも、くふうによってはなんでもできるものだということ、もう一つは、度を越えた苦痛を耐えていると、気が狂う前に人間には気絶という保身の道があるということであった。二つとも、負けるものかという不屈の精神を受け付けた体験である。(出所:私の履歴書 / 創業者・市村清 | 三愛会)

29歳頃 熊本で保険外交員をする

  • 突然無職になった市村は、失意のうちに帰国した。まだ昭和恐慌の余波が残る中でまともな就職先はなく、やっと見つけたのが富国徴兵保険株式会社での保険外交員だった。
  • 妻を実家に預け、自らは熊本に単身赴任をして保険を売り歩いた。給料はなく、完全出来高制だったが、68日間売り続けても1件も契約がとれなかった。
  • 市村は東京へ夜逃げすることを決意して妻に言い渡したが、「それはつらいことはわかるけど、ひと口くらいは取ってください。あなたの履歴に一つも成果のなかった仕事があったことになるのが、くやしくありませんか」と励まされ、続けてみることにした。
  • すると、その翌日、大みそかの晩に、それまで8度門前払いを食らっていた私立大江高等女学校の校長、竹崎八十雄とついに会うことができた。市村の保険外交員らしからぬ丁寧な態度に興味を持っていた竹崎は加入すると、様々な知り合いに市村を紹介してくれた。
  • その結果、全国一の賞と社長から記念の軸物を送られる成績さえあげられるようになった。
    その年の秋、富国生命の伊豆凡夫専務が福岡支部に来て市村を呼び、佐賀県の監督になるよう依頼。市村は再び佐賀に戻ることとなった。

理研の代理店をしていた時代

29歳頃 理研の感光紙の九州総代理店として独立

  • 佐賀に戻った市村は、当時富国生命の佐賀代理店主だった資産家の吉村と親しくなった。吉村は理研感光紙の九州総代理店も兼営していたが、腕利きの保険外交員であった市村に感光紙も売らないかと勧めてきた。
  • 市村は乗り気になり、交渉の末吉村とは権利を譲り受けることで話がついた。
  • ただし、理研側がいち保険外交員に過ぎない市村に販売代理権を渡すことを渋った。市村は理研側と喧嘩もしながら、当分は吉村商会の名で仕事をやり、成績があがれば改めて考慮するという約束を取り付けた。

30歳頃 初めて従業員を雇う

  • 最初はできたばかりの会社から感光紙を買う企業などなかった。しかし、市村は何度門前払いを食らおうと顧客を訪ねることをやめず、三井三池炭鉱、八幡製鉄所などの大口顧客を開拓していった。
  • 1930年には、従業員を雇わなければいけないほど売り上げが伸びていた。市村は、会社を成長させるためには、従業員が使われているという意識ではなく、事業の協力者という意識を持つことが大事だと考えた。
  • そこで、給料は当時の相場の6割増しの8円として採用した。2,3割増しでは従業員の印象に残らないため思い切った昇給だった。また、食事は必ず従業員と一緒に同じものを食べることを徹底した。子供の頃、伯母の家で自分だけ別に食事を採っていた疎外感を知る市村ならではの考えからだったと思われる。
  • その結果、従業員は望外の働きをし、売上は「幾何級数的」に増加した。従業員は50人を超え、市村は朝鮮、満州の総代理店の権利まで獲得した。

33歳 理化学興業株式会社の感光紙部長に抜擢、しかし総スカンで孤立

  • 満州では満鉄への売り込みに成功した市村は、理化学研究所所長の大河内正敏博士から三顧の礼迎えられ、研究所で発明、開発された技術の企業化を図る理化学興業株式会社の感光紙部長として招聘された。
  • ところが、妻と2人上京した市村を待っていたのは、職場での総スカンだった。福岡のいち代理店からやってきた市村がいきなり部長待遇で迎えられたことに、現場は冷ややかだった。
  • 周囲の協力が得られず進退窮まった市村は、考えた末、「何もしない」ことにした。破格の給与でお金だけはあったため、毎日、銀座にある「サロン春」という、女性がいるお店でお酒を飲んで過ごした。
  • 「サロン春」に3か月通い続けた結果、ついにそのことが理研にばれてしまった。市村は潔く辞表を出したが、大河内所長の意向で、「市村がいる部門だけは、人事権、経理いっさいを切りはなして市村に任せる」という決定が緊急役員会で出され、市村は会社に残ることになった。
  • その後も社員と喧嘩し、空調装置をハンマーでたたき壊すなどの騒動を起こし、市村は再び辞職を覚悟した。しかし、大河内所長の取り計らいで、感光紙部門を独立の会社にして市村に任せてもらえることになった。

36歳頃 理研感光紙株式会社の専務取締役に就任(三愛グループのはじまり)

  • 1936年、感光紙部を理研感光紙株式会社として創立し、市村は代表権を持つ専務取締役に就任した。
  • 専務取締役となった市村はコストダウンのため王子製紙に新たな紙を大量に作らせたが、江戸川工場で大量の不良紙ができてしまった。当然責任は王子製紙側だったが、工場長に「家庭に5人も子供がいる」と泣きつかれた市村は、工場長がクビにならないよう、不良紙を引き取った。当然社内では問題になり、大河内所長にも大目玉を食らった。
  • ところが、戦時体制下で紙の統制が始まった時、工場長が市村への恩義を忘れず、理研感光紙への紙を3割増しで供給してくれた。これが営業面でプラスに働き、活躍が認められた市村は理研ピストンリング、理研コランダム、富国工業などの重役になった。
  • 2年後、理研感光紙は理研工学工業に会社名を変え、これがリコーの始まりとなった。

戦後、サービス業を行った時代

45歳頃 終戦を機に三愛商事設立、銀座4丁目で食料品を適正価格で売り出す

  • 戦時中は軍部と密接な仕事をしていた市村は、終戦することを早く知っていた。8月11日にポツダム宣言受諾の方針が世界に向けて放送されたのをきっかけに、自宅に全重役を集めると、戦後の経営方針を検討した。様々な議論が出たが、市村は、工業面ではアメリカにかなわないため、あらゆるものを販売するサービス業で勝負しようと考えた。
  • 市村は、敗戦という厳しい難局こそ「人を愛し、国を愛し、勤めを愛して」乗り気ならなければいけないという願いから三愛商事と名付けた会社を設立。それまで工業を手掛けてきた市村に対し周囲が懐疑的な目を向ける中、1945年に、当時まだ焼け野原だった銀座四丁目に狙いを定め、店舗を構えた。
  • ヤミ市が横行し物価が値上がりする中、「適正価格」と銘打ってヤミ市より安く食料品を販売し、店舗は繁盛した。
  • ところが、食料品の取り扱いに慣れていなかった三愛商事は、決算で赤字続きだった。食糧が満足に手に入らない中、食糧を大量にくすねる社員がいたこともあり、菊屋橋、浅草橋、日本橋、木挽町にあった4つの店舗は全て廃止し、銀座店だけを残した。そのため700名の従業員のうち500名も解雇せざるを得なかった。異業種への転換はやはり容易ではなかった。
  • その後、銀座店では婦人服を売り出し成功を収めた。

47歳頃 明治記念館を結婚式場として経営

  • 1947年、明治神宮からの再建要請を受けた市村は、元の憲法記念館を結婚式場明治記念館として経営し始めた。これが人気となり、大成功を収めた。
  • 明治記念館を経営してみて、市村は利ザヤを抑えて、大きく儲けることの神髄を掴んだ。
    明治記念館

    現在の明治記念館 出所:江戸村のとくぞう [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)]Wikipedia Commons

明治記念館を経営してみて、私が悟ったことがひとつある。それは「もうける」と「もうかる」の違いである。もうけるのはどんなにうまくても限度があるが、もうかるということは無限だ。そして道にのっとってやるのが、「もうかる」ことなのである。(出所:私の履歴書 / 創業者・市村清 | 三愛会)

52歳頃 三愛石油株式会社を創立し、取締役社長に就任

  • 1952年、日本航空が誕生すると、市村に対し航空ガソリンを供給してくれないかという打診があった。市村は三愛石油を創立したが、スタンダード、シェル、カルテックスなどの巨大資本に対しあまりに規模が小さく、経営が安定化しなかった。
  • そこで羽田空港の給油をする計画を思い付き、計画願書を運輸省に出したところ、業界に情報が広がり、8社とのコンペになってしまった。そこで市村は、直接極東空軍の司令官あてに英文の上申書を作って手渡した。すると、司令官はこれを了承し、羽田の給油の権利を得ることができた。こうして、羽田に発着する世界中の飛行機が三愛石油を通してでなければ給油できないことになった。

「羽田は将来日本の表玄関になる所である。そこの永久権益に属するような給油施設を外国人にやらせるつもりがあるなら、それはとんでもない思い違いだ。第一このことを考えてプランを立てたのは自分である。人格的にもだれにも劣らないつもりだ。もしあなたがものごとの理非をわきまえるなら当然これは私に許可すべきである」司令官あての上申書に、私はほぼこういう趣旨のことを素直に堂々と書いた。(出所:私の履歴書 / 創業者・市村清 | 三愛会)

63歳頃 日本初のリース会社である日本リース・インターナショナルを設立

  • 1963年、市村は日本初のリース会社「日本リース・インターナショナル」を創設した。
  • もともと土地などに対する所有欲が強い日本人にはリースは不向きと考えられていたが、市村は「使用すれど所有せず」などのキャッチコピーで市場を切り拓いていった。

65歳頃 リコー無配、経営危機

  • 1965年、業績悪化により、リコー三愛グループの中核であるリコーが無配となり、大きな反響を呼んだ。
  • リコーの業績を悪化させていたのは、押し込み販売だった。帳簿上は販売されているはずの製品が、なぜか倉庫で大量に眠っていた。既に経営の神様としてもてはやされ、時代の寵児となっていた市村は、会社の細かな現場まで目を配れていなかった。
  • リコーはこの年過去最低のボーナスをたたき出し、市村にとって恥辱的な無配となった。そこから市村は再建に向け必死に取り組んだ。

65歳頃 静電複写機「電子リコピー BS-1」を発売

  • そんな中、リコーは1965年に「電子リコピーBS-1」を発売。当時、¥デスクトップ機として世界で初めて原稿台固定方式を採用し、シートだけでなく本などの冊子もの、織物、宝石、機械部品、食器など「なんでもコピー」ができることで、大きく販売が伸びた。
  • 電子リコピーの成功はその後のリコーのOA機器メーカーとしての隆盛の基礎を築いた。そうして、2年後の1967年にリコーは復配を達成した。市村は「奇跡の不死鳥」「不屈の闘魂」と世間の称賛を浴びた。

    電子リコピーBS-1

    電子リコピーBS-1 出所:リコー

68歳頃 がんにより死去

  • がんを患っていた市村は、1968年、急性肝萎縮症のため永眠した。
  • 現代において色々な人がリコーの事業内容をイメージしづらいのは、市村という人のバイタリティと辿った軌跡のスケールが、あまりに大きいからなのかもしれない。