ウォルト・ディズニー ディズニー創業者

実業家

ディズニーの創業者であるウォルト・ディズニー。彼の人生を振り返る。

幼少時代

0歳 シカゴにて出生

  • ウォルトは、イギリス統治下のカナダで出生したアイルランド系の父と、ドイツ系アメリカ人の母の元、4兄弟の末っ子として生まれた。

5歳頃 絵に興味をもつ

  • 幼いころから絵を描くのが好きで、アピールトゥリーズン新聞の表紙に掲載されていたライアンウォーカーという漫画を模倣して描いて練習していた。
  • 家族でミズーリ州に引っ越すと、ウォルトは隣人の引退した医者が持っていた馬の絵を描き、報酬を得る。これがウォルトにとって初めての報酬を得る経験だった。
  • 水彩画やクレヨンで絵を描く能力もこの時身に付けた。

学生時代

10歳頃 カンザス州に引っ越し、Benton Grammar Schoolに入学、休日に美大の早朝授業に参加

  • 学校で知り合った映画好きの友人から、世界のヴォードヴィル(演劇)を見せてもらい、初めて見る映像に衝撃を受ける。夢中になり、次第に自宅にいるよりも、友人の家に居る時間の方が長くなった。
  • カンザスの新聞社で新聞配達のアルバイトを始める。朝4:30に起床して配達に行き、放課後に再度配達をするというハードな働き方をしていた。そのため、学校では、居眠りをしたり、悪い成績をとることもあった。
  • 一方、絵を学ぶことには熱心で、子供ながら、毎週土曜の朝にKansas City Art Institute漫画の授業を受けに行っていた。

16歳頃 McKinley High Schoolに入学、並行して美大の夜間コースに通学

  • 高校では、学校の新聞のイラストレイターを担当した。
  • 放課後には Chicago Academy of Fine Artsの夜間コースで学ぶ生活を送っていた。

17歳頃 赤十字社に入り、救急車のドライバーになる

  • 米国軍入隊を志願するが、年齢偽装がばれ、若すぎるという理由で拒否された。
  • 結果的に赤十字社に入り、フランスに派遣され救急車のドライバーをしていた。
  • 当時の新聞に、ウォルトが救急車の側面に描いた絵が掲載されたことがある。

18歳頃 Pesmen-Rubin Commercial Art Studioで見習いアーティストを始める

  • 赤十字社を離れたウォルトは、カンザス州に戻り、デザイン会社Pesmen-Rubin Commercial Art Studioで見習いアーティストを始める。
  • 広告、演劇、カタログなどの商業イラストを描いていた。

19歳頃 リストラに遭ったのをきっかけに、Iwerks-Disney Commercial Artistsを設立

  • Pesmen-Rubin Commercial Art Studioの業績が傾き、リストラされてしまう。
  • リストラされたことをきかっけに、ウォルトは同僚だったアイワークスと共に、自分たちでビジネスを始めることにし Iwerks-Disney Commercial Artistsを設立した。
  • もちろん、すぐに収入が見込めるわけではないので、ウォルトはthe Kansas City Film Ad Companyで短期的な仕事をかけもちながらのスタートだった。
  • 二人が取り組んだのは、カットアウトアニメーションだった。ウォルトは漫画と違い、動的なアニメーションに魅力を感じ、本を読んで勉強し、自宅でアニメーションについて深く研究を重ねた。
  • ウォルトは、Milton Feldから「Laugh-O-Grams」という12個の漫画をアニメ化する契約を取り付けた。9つのアニメ化が完了するまで無報酬状態が続き、ウォルトは週1の入浴で過ごすような生活を送った。その甲斐があって、劇場でアニメは人気を博し、成功を収めた。

21歳頃 Laugh-O-Gram Studioを設立

  • ウォルトは、Laugh-O-Gramsが成功したのをきかっけに、アイワークスや知人を集めて新たにLaugh-O-Gram Studioを立ち上げた。

22歳頃 Laugh-O-Gram Studioが1年で倒産、ハリウッドへ引っ越す

  • ウォルトは、下請けとして仕事を得るのではなく、自分たちでアニメを作りたいと感じ始める。
  • 児童小説「不思議の国のアリス」を題材に、実写とアニメを融合した作品作りに取り掛かるが、完成するまでに時間を要し、資金繰りが悪化した結果倒産してしまう。

22歳頃 ハリウッドに引っ越し、弟と共にDisney Brothers Cartoon Studioを設立

  • ウォルトは、実写映画監督になることを決意し、ハリウッドに引っ越し、弟と共にDisney Brothers Cartoon Studioを設立した。
  • ウォルトは、完成していた「不思議の国のアリス」の映像を手に、「フェリックス・ザ・キャット」の配給で成功したマーガレット・J・ウィンクラーの元へ話を持ちかける。
  • 新作を必要としてたマーガレットは、ウォルトが持ってきたアニメの質に驚き、6部に渡る「アリスコメディーズ」を制作することで合意した。
  • ウォルトは、Laugh-O-Gram Studioで共に仕事をした仲間たちをカンザスからハリウッドに来るように説得し、「アリスコメディーズ」の製作に注力。
  • 後に57部まで続くほどのヒットとなる「アリスコメディーズ」は、Disney Brothers Cartoon Studioに十分な経営資金を生んだ。

24歳頃 インクアーティストのリリアン・ボンドと結婚

  • ウォルトは、インクアーティストとして採用していたリリアンと結婚した。後に二人の娘を授かる。

25歳頃 The Walt Disney Studioに社名変更

  • 新たにオフィスを構えることにしたウォルトは、建物名を「The Walt Disney Studio」と名付けると同時に、社名も合わせて変更した。

27歳頃 従業員のほとんどを失う

  • マーガレットの夫ミンツは、ユニバーサルピクチャーズに新しいアニメを提供するため、ウォルトに対して新作を要求してきた。
  • そこで、ウォルトは、オズワルドラッキーラビットといううさぎのアニメの制作に取り掛かった。
  • しかし、ウォルトはミンツが安く買いたたこうとしていること、知的財産権がユニバーサル側についてしまうことを知り、結局作品の提供を拒否した。
  • ウォルトのこの行動に対し、ミンツは、オズワルドラッキーラビットを完成させるため、The Walt Disney Studioで働く従業員を引き抜く行動に出る。これにより、ウォルトはアイワークススを除き、多くの従業員を失ってしまう。

27歳頃 ミッキーマウスを生み出す

  • オズワルド作品の代わりとなるキャラクターとして、ウォルトが作ったのが現在のミッキーマウスだった。
  • ウォルトは、ユニバーサルピクチャの元役員であるパット・パワーズにミッキーマウスシリーズのアニメを売り込み、パワーズは契約を結んだ。ミッキーマウスはすぐに人気となっていった。
  • ウォルトは、パワーズに対し報酬を上げるよう要求したが、パワーズはこれを拒否。加えて、パワーズは、アイワークスをウォルトから引き離そうと、アイワークスと個人的な契約を交わした。

28歳頃 Walt Disney Productions に社名変更

30歳頃 過労により精神崩壊し、休暇をとる

  • ウォルトは、多くの従業員を失った分を自ら働くことで補ってきた。
  • しかし、パワーズの要求は非常に多く、ウォルトは機械のように働かざるを得なかったため、過労状態に陥り、精神的に崩壊。一定の休暇をとった。

30歳-40歳頃 Columbia Picturesと契約を結び、ミッキーマウスのアニメを世界に広める

  • パワーズとの契約を辞めたウォルトは、次いでColumbia Picturesと配給契約を結んだ。
  • ウォルトは、ミッキーマウスのアニメに音声を付す、カラー化する等、常に新しい技術を盛り込んだことで多くの賞賛を浴びた。
  • それまで常識だった短編物ではなく長編物で「白雪姫」を製作する方向性を打ち出した時、業界関係者から「ディズニーは崩壊する」等と言われるほど批判を浴びたが、結果的に世間には大変好評で受け入れられた。

40歳頃 従業員の給与カットに踏み込み、ストライキに遭う

  • 第二次世界大戦が始まった影響で、欧州からの収入が減少したため、従業員の給与カットに踏み込まざるを得なくなる。
  • 従業員はストライキで対抗し、Walt Disney Productionsは財政的に増々苦しくなる。
  • 加えて、数名の従業員が会社を去ったため、この期間を製作期間として公開された「ダンボ」は、「簡単で安価な方法で制作された」という評価を受けることになった。

40歳-49歳頃 作品がヒットせずに苦境に

  • その後の作品「バンビ」や「ピノキオ」も不発で、ウォルトは軍事用映画の製作を引き受けるなどしたが、製作コスト分ほどの報酬しか得られなく苦境が続いた。同時に、Warnerなどの競合も出てきていた。
  • しかし、当時Walt Disney Productionsに対し400万ドルの融資をしていたバンク・オブ・アメリカの社長は「財務的に許容できるリスクを超えて融資をしているんだからディズニーのアニメを注視してみているよ。今年は良かったよ。来年はもっと良いものができるし、再来年は更によくなるよ。リラックスして、大衆に作品が受け入れられる時間を与えなさい。」と温かい声をかけてくれた。

49歳頃 シンデレラのヒットで復活

  • 約10年の歳月を経て、ウォルトは「シンデレラ」の成功で会社を再び軌道に乗せる。製作費2百万ドルに対して、初年度の興行収入は8百万ドルを超えるヒットとなった。
  • 第二次世界大戦が終結していたこともあり、シンデレラは、世界中で展開可能な状態になっており、映画の放映権の貸出、音楽、出版などあらゆる面で継続的に収益を上げた。
  • ここでもたらされたキャッシュがその後の「不思議の国のアリス」、「ピーターパン」等のアニメ製作への盤石な元手となった。

54歳頃 ディズニーランドを開園

  • 「シンデレラ」の成功の後、ウォルトはアニメ制作への関与度を落とし、密かにテーマパークを建設する計画を進め始めていた。
  • 計画を進めるに当たっては、「清潔で安全な場所で子供を遊ばせたい」という親の声にも耳を傾け、欧州の公園を視察したり、アメリカ中のテーマパークに従業員を送り込んで、成功要因・失敗要因は何かを分析したりした。
  • 開園初年度の来園者数は、約360万人に達した。これによりWalt Disney Productionsは、テレビ、映画、出版、音楽から得られる収入に加えて入場料という新たな収入源を得ることになり、更に規模を拡大した。

65歳頃 肺癌で亡くなる

  • ウォルトは、20代の時からヘビースモーカーで、フィルターを使わずにパイプで直接喫煙していた。
  • 65歳の時、急に気分が悪くなり病院に運ばれたそこで肺癌と診断される。診断から約1か月後の1966年12月に息を引き取った。