キム・ボムス カカオ創業者

実業家

カカオ社を創業し、韓国で最もメジャーなチャットアプリ「カカオトーク」で作り上げたキム・ボムス。過去には日本でもブームとなったハンゲームの創業者でもある。
日本で最もメジャーなチャットアプリ「LINE」の創業社イ・ヘジンとも深い関係性にあった彼の人生の岐路を振り返る。

幼少時代

0歳 ソウル特別市にて出生

  • 中卒で大工の父と、小学校卒で地方の食堂で働く母の元に、2男3女のうち長男として生まれた。とておも貧しい家庭だった。
  • ボムスは、祖母に育てられ、地方に出稼ぎに行っていた母親とはほとんど一緒に住んだことがなかったため、母親の愛情を受けられない物足りなさ感じていた。

学生時代

12歳頃 父の事業が倒産し、さらに貧しくなった中学時代

  • ボムスが中学生の頃には、父は大工から精肉卸売業者の運営に切り替えており、そこで得たわずかな資金で小さな家を購入したが、父の事業が倒産してしまう。
  • その後は、祖母をはじめとする8人家族が一部屋で生活する状態になった。
  • ボムスは、貧しい家庭の状況を考えると、他人と同等の普通の努力ではいけないような気がして、ひたすらに勉強に打ち込んだ。
  • 猛勉強の末、建国大学付属高校に入学果たす

19歳頃 1浪を経て、ソウル大学に入学

  • ボムスは、浪人して猛勉強の末、韓国最高学府であるソウル大学に入学。産業工学を学んでいたが、他学部の同級生としてNAVER創業者のイ・ヘジンがいた。
  • 大学に入ってからもとても貧しく、大学の食堂メニューすら買えないほど困窮しており、当時禁止されていた家庭教師の仕事をして学費を稼ぎながら生活をしていた。
  • 同時にとにかく遊び、勉強はしなかった。なぜなら、自分の好きなこと、興味のある事に没頭することが大切であるとボムスは自分の信念のように感じ始めていたからだった。

浪人の1年間あまりにも苦労した心理的反動で、花札、ポーカー、ビリヤード、囲碁に夢中でした。勉強しなくてもソウル大を卒業すれば就職できないわけがなくて、どうせ遊ぶのならゲームの世界を覗いてみようと思ったんです。振り返って考えてみると、このいった数多くの経験は無駄じゃなかったんです。
人は自分が好きで、上手にできる領域から始めるというのが一歩目だと思います。
(私が)ハンゲームを作る時も「それさえも私上手に何「してみると「私は上手ゲームとキャッチし、このようなガールオンラインで移動ほしい」という思いがしたんですよ。夜更かしして遊んだ経験がオンラインでもなろうたかったんです。」
(出典)モニトゥデイ2011.10.19

 初めてコンピューターに出会い、衝撃を受ける

  • ボムスは在学中、ネット掲示板で起業した後輩の会社オフィスを訪ねる。すると、そこにはボムスが知らなかったインターネットの世界が存在していた。
  • さっきまで直接話していた人と、ネットの掲示板で会話ができることに衝撃を受けた。
  • また、常に金欠だったボムスにとって、ネットで事業を起こすのに、莫大な資金が必要ではないことも興味をそそった理由の一つだった。

(後輩のオフィスを訪れた時は)接続された世界を知る最初の経験でした。とても不思議でした。3ヶ月間、後輩のオフィスに泊まり込んで学びましたよ。(この時、大学を)卒業したら、コンピューターを使うことができる会社に就職しようと決心したんです。
(出典)モニトゥデイ2011.10.19

23歳頃 ソウル大学大学院に進学

  • 大学院に入ってもコンピューターへの興味が継続しており、PCと通信に関する論文を書いて修士号を取得した。

社会人時代

25歳頃 大学院卒業後、サムスンSDSに就職

  • 学部時代に決意したコンピューターを使うことができる会社に就職するという夢が叶い、サムスン電子の子会社でITサービスを提供するサムスンSDSで働き始める。
  • ボムスは、PCの通信サービス「ユニテル」開発チームに配属された。
  • 当時の通信接続と言えば、PCにコマンド入力をする必要があったが、ボムスが携わっていたサービスはマウス操作で誰でも簡単にPCを通信接続可能にするサービスだった。

 ネットカフェを副業として開業

  • サムスンSDSでインターネット接続の最先端に触れていたボムスは、「オンラインで老若男女を問わず幅広い層の人が楽しむ遊園地を作ってみるとどうだろうか」というアイデアを持つ。
  • そこで、オンラインゲーム開発で創業を決意する。
  • しかし、アジア通貨危機が発生し、資金調達が困難となり、ゲーム開発のみでの創業が困難になる。そこで、資金を自身で貯めるため、副業として500万ウォンでネットカフェを創業する。

ネットカフェをするには、近くの商圏を完全に掌握することが必要。そうすれば、ゲーム事業資金を早期に確保することができると思ったんです。
(出典)韓国経済新聞2019.01.14

  • 短期間でソウルに国内最大規模のネットカフェを作り上げたが、その後資金が逼迫し始める。

 オンラインゲームサイトを運営するハンゲーム社を創業

  • ネットカフェの運営資金が逼迫し始めるが、約1年の運営で5000万ウォンの資金を確保できていたため、念願のオンラインゲームサイトを運営するハンゲーム社を設立した。
  • ハンゲームは、花札・テトリス・囲碁などのオンラインゲームを揃え、サービス開始後3ヶ月で会員数が100万人を超えた。開始から2年の間に、会員は1000万人まで爆発的に増えた。
  • しかし、ハンゲームは大きなユーザコミュニティは持っていたものの、ゲーム一本足打法の状況だった。
  • ボムスは、ユーザを引き留めつつ、増やしていくゲーム以外のユーザ接点を模索していた。

34歳頃 検索ポータルサイトNAVERからのハンゲーム買収提案を受け入れ、NAVER社の共同代表に就任

  • ボムスが、ゲーム以外の新たなユーザ接点を模索していると、サムスンSDS時代の同期で大学時代の同級生でもあるイ・ヘジンが連絡をしてきた。
  • 内容は、ハンゲームを買収したいということだった。
  • イ・ヘジンは、サムスンSDSを1999年に退職し(ボムス退職の1年後)検索ポータルサイトNAVERを運営していた。
  • NAVERは、社内に技術力はあったが競合のYahoo、Daum、Lycosからシェアを奪うのに苦心しており、ユーザーを一気に増加させる必要があった。
  • ハンゲームを買収し、1000万人のユーザコミュニティを取り込みたい考えだった。
  • 社内には買収受け入れに反発する者もいたが、ボムスは、ハンゲームとNAVER双方にとってシナジーがあると判断し、議決権比率4(NAVER)対1(ハンゲーム)というこの提案を受け入れた。

35歳頃 NAVERとのシナジーによるユーザ増加により、サーバの危機。有料課金を導入

  • NAVERとのシナジーにより、ハンゲーム利用者は着実に増え、サーバ負荷が増加。
  • 利用料無料を維持することができなくなり、ゲームの勝率を高める有料課金サービスを導入した。
  • 有料化することでユーザの離脱懸念もあったが、有料課金導入初日に1億ウォンの課金があった。

 「NHN」へと社名変更、コスダック上場、日本進出を経て、規模拡大を経験

  • 合併後、社名を「NHN」に変更し、韓国の株式市場に上場を果たした。
  • 検索ポータル・ゲーム共に韓国での事業は急拡大し、新たな市場を求めて日本に進出も果たした。
  • 2004年にNHNの単独代表取締役社長、2005年から2006年までNHNグローバル担当代表取締役を担当し、新たな市場開拓のため、米国へ渡ることになる。

41歳頃 NHN米国法人の代表に就任するが、約半年で退職。IWILAB社を設立

  • ボムスは、米国代表に就任するも、既に使い切れないほどの資産を得ており、幼いころに苦労した「お金」に対する不安は全くなくなっていた。
  • お金を稼ぐことが自分を行動させてきた一種の原点だったが、その欲が満たされ、どこか物足りない気持ちになっていた。
  • 米国に到着してからしばらくすると、Apple社が初代iPhoneの発売を宣言した。これを見たボムスは、これまでの携帯電話の常識が破壊されると同時に、インターネットがより身近なものになることを確信する。
  • ボムスは、大学時代、後輩が運営していたネット掲示板を始めて見た時に感じた衝撃を超える何かを感じたのだった。
  • 自分が好きなこと、ワクワクすることに再挑戦しようという心が再び湧き上がってきたため、新たに自分で事業を起こすことを決意し、NHNを退職する。同年にIWILAB社を設立した。
  • 会社は設立したものの、すぐに全力は尽くさなかった。自分にとって何が大切かを再認識する必要があったからだった。2010年までは、ブログサービスや、SNS等を展開した。

何かを再び模索する必要があると本当に思ったんですよ。心の底から私の好きなもの、意味があるもの、価値があるものをですね。お金を得た代わりに、私が失った言葉達です。
(出典)モニトゥデイ2011.10.19

船は港に停泊しているときに最も安全である。しかし、それは船の存在理由がない
(出典)zdnet2013.02.05

 単身韓国へ帰国、家族と1年間の旅をする等、自由な3年間を過ごす

  • ボムスは、NHN退職後、NHNの非常任理事に転じた。
  • 家族を米国に残し、単身で韓国に帰国。約1年間、音楽に触れ、本を読み、多くの人に会うなどして、自分の幸せは何かを模索した。

多くの人々に当たり前だったことが私には新鮮で、自分にとっての幸せとは何かに近付きました。(40歳を超えた)この年にしてですね。人に会う度に聞いたんです。 幸せなのか、どんな夢なのか、そんな感じで1年を過ごしてから少しのヒントが見えてきたんですよ。
(出典)モニトゥデイ2011.10.19

  • 米国にいる家族の元に戻ってからは、家族を説得して子供を1年間休学させ、旅に出た。家族で過ごす幸せも再認識した。

上の子は高1、下の子は中3だったが、1年間遅れて大学へ行けばいいと思ったんです。私も浪人しましたので。
4人で旅行に行って、ビリヤードをしたり、(これまでとは)別のことをしたんです。何もかも忘れて遊ぶことにしました。ネットカフェにもよく行きました。私もゲームがうまく、妻も中々ですよ。娘が問題でしたが、息子の指導で実力が日々向上したんです。4人でゲームをしていたら明け方4時だったんですが、ネットカフェのオーナーからしたら変に思ったでしょうね。幸せでした。
http://news.mt.co.kr/mtview.php?no=2011101714343203791

44歳頃 韓国でのiphone4発売に合わせて、カカオトークをリリース

  • ボムスは、2007年に米国でiPhoneの登場を目撃して以来、モバイルと通信の新たな時代の到来を予測していた。
  • 2009年に米国でチャットアプリ「ワッツアップ」の登場を目撃しており、人々のコミュニケーション方法が大きく変わると確信していた。
  • そこで、iPhone4が韓国で発売されるのに合わせて、チャットアプリ「カカオトーク」をリリースした。カカオトークの人気は爆発的で、1年間で1000万ダウンロードを記録。
  • さらにその4か月後には2000万ダウンロードに達した。
  • 当時、多くのIT企業が、社内にiPhoneアプリの開発者を抱えていなかった時代に先手を打っていたのだった。

Q.自身が今までした仕事の中で最もうまくやったことは何だと思うか。

A.大きな流れを読んだという点くらいだ。流れを読んだとは言うが当時は不確実だった。私自身の人生をかけた決断は大きく2回あったが、流れは大きく違わなかった。他の人が合っているのかなと首をかしげて(様子を伺って)いた時に(私は)オールインした。これが私の人生だった。不確実なときにチャンスがある。
(出典)もっと!コリア

  • カカオトークはその後、無料のチャットアプリとしての立ち位置から、スタンプ販売、ゲーム、金融事業等を展開、生活統合プラットフォームに成長し2012年には黒字化を果たした。
  • ボムスは、カカオトークが若者の夢を叶えるプラットファームになることを期待している。
  • その意図は、技術の発展とモバイル革命によって、今や誰でも大きな市場に挑戦できる時代になったため、カカオートークのプラットフォームを上手く使って欲しいということだ。

日本では携帯電話で小説を連載して500億ウォンの大ヒットを出した作家がいます。有名な作家ではないんですが、短い文章とテンポで、モバイルに合わせたんですね。現代は、学校の勉強のように過去の知識を積むトレーニングよりも、新しいものに対処する能力がより重要になってしまいました。文章書きたい人なら書く練習をすると同時に、執筆とパラダイムの変化がどのように接続されるか気に掛ける必要があるのです。自分の好きな分野のスキルを積みながら、同時に視点を変えて世界を見ること・知ること、その二つがぴったり合う延長線上に答えが出てくると思います。
(出典)モニトゥデイ2011.10.19

ほとんどの人間は慣性から抜け出すのが難しいので、別の観点で物事を見てみようとすべきです。ピカソは、他の人達が目に見えるもの描いている時に、目に見えないものを描き、世界最高の称号を得たんです。
(出典)モニトゥデイ2011.10.19

45歳頃 カカオ社日本進出

  • 2011年、日本法人カカオジャパンを設立する。
  • しかし、日本では、古巣NAVERの日本法人がチャットアプリ「LINE」で大きなシェアを獲得しており、日本でのカカオトーク普及は苦戦する。

48歳頃 ダウム社と株式交換により合併

  • カカオ社は、韓国国内においてNAVERに次ぐポータルサイト「Daum」を運営しているダウム社と株式交換により合併する。
  • Daum社にとっては、シェア1位の「NAVER」を攻略したいし、カカオにとっては、そのNAVERが運営する「LINE」を攻略したいというのが合併の理由だった。

50歳頃 LOENエンターテインメントを買収

  • 2016年、カカオで提供するコンテンツの充実を図るため、音楽のストリーミング配信等を提供するLOENエンターテインメントを1兆8700億ウォンで買収した。
  • 韓国国内のIT業界では稀な大型取引であった。
  • 高額な買収に否定的な意見が多かったが、この買収以来カカオ社の業績は更に伸び、新たな成長の原動力になった。

50歳頃 スタートアップキャンパス総長に就任

  • 韓国のシリコンバレーと知られる京畿道城南(キョンギド・ソンナム)にある板橋テクノバレー。
  • ボムスは、ここに設立され京畿科学技術振興院のスタートアップキャンパスの総長に就任した。
  • スタートアップキャンパスは研究棟、実験棟、共同研究棟の3つの建物で構成される。300社ほどのスタートアップ企業を入居させグローバル企業に成長するまで多様な支援を提供する。
  • 共同研究棟2階にはインキュベーティング段階の企業が、3階には有望企業、4階には海外進出企業が入居する形で、成長段階別に次第に上のフロアに上がっていき、最後には卒業する仕組みだ。
  • ボムスはここで、自身が2度(ネットカフェ運営を入れれば3度)も起業を成功させた経験と、経営者として必要なことを伝承し、韓国のベンチャー企業支援をしている。

問題を解決する能力よりも、問題を認知する能力、問題を定義する能力がものすごくより重要である。リーダーの能力は、答えを探してくるのではなく、質問をすることであると思います。この問題を解いて見てね。何の問題を解いてみろとするかが競争力です。
(出典)モニトゥデイ2011.10.19

50歳頃 EY最優秀企業の韓国代表に選出される

  • 50歳ボムスは、監査法人EYが主催する「EY Entrepreneur Of The Year」の最優秀企業の韓国大業に選出され、モナコで自身の考えを明かし、韓国の教育に問題意識を持っていることを明かした。
  • 韓国の学校教育では、ビジネスに触れる機会がなく、起業家精神が必ずしも養われない。一方で、良い大学に入れば一生安定という成功モデルも崩れているというのがボムスの問題意識だ。

今、私たちの社会で最も急速に変わっているのは、企業であり、最も遅いのは教育
(出典)毎日経済2016.06

アルファ碁の(プロ棋士に勝利した)一件で、親たちも、10〜20年後には自分達の知らない世界が来るような気がして、子供に対して必要以上に勉強だけを強要しない場合が増えている。(もはや前だけを見た教育ではなく、)横を見始めているようだ。
(出典)毎日経済2016.06

  • また、韓国の教育が、自身でビジネスを起こすのに適した教育ではないことから、「20代で起業をしてはいけない」と主張する

小さなベンチャーに入って経験をして、米国よりも5〜6年遅れて創業しても大丈夫だ。
(学校教育の後、すぐに起業したら)熱心にサッカーの試合を準備した選手が、競技場に入った瞬間に野球場に変わったようになってしまう。
(出典)毎日経済2016.06