山崎大祐 マザーハウス副社長

実業家

マザーハウスの副社長山崎大祐。投資銀行ゴールドマンサックスを経て、無名のベンチャーだったマザーハウスに飛び込み、副社長を担っている彼の人生を振り返る。

幼少時代

0歳 東京で出生

  • 山崎は、母子家庭で育ち、経済的に豊かな環境ではなかった。

学生時代

11歳頃 ジャーナリズムに憧れを抱く

  • 山崎は、小学生の時にテレビでベルリンの壁の崩壊を見た。
  • 大衆が世界を変える光景に感動すると同時に、その様子を取材放映するジャーナリズムに憧れを抱いていた。

17歳頃 焼き肉屋でバイトをしていた高校3年間

  • 母子家庭で裕福ではなった山崎は、高校3年間焼き肉屋でアルバイトをして、昼食代と遊ぶ小遣いを稼ぎ、夕食は賄いをあてにする高校生活をしていた。

18歳頃 物理学者か記者になるかで迷った大学受験

  • 山崎は、高校時代完全な理系少年だった。
  • 数学の偏差値が70で英語の偏差値は40代ということだそれを物語っていた。
  • そこで、物理学者になろうと思っていたが、小学生の時に抱いた記者への夢も捨てられずにいた。
  • 大学受験では、この二つの夢によって進むべき学部で悩むことになった。

18歳頃 慶應義塾大学総合政策学部入学

  • 山崎は、国立大学の物理学科に合格したものの、記者の夢に最も近いと思いダメ元で受けた慶應の総合政策学部に合格した。
  • 山崎は自分の適性に従えば、物理の道に進むべきだったが、幼いころの記者への夢を捨てきれずに文系の道に進んだのだった。

19歳頃 ベトナムで、貧困地域にある豊かさに気づく

  • 山崎は、ベトナムでストリートチルドレンのドキュメンタリーを撮影していた。
  • 自分自身が育った環境が豊かではなかったため、世界の貧困問題にも興味を抱いていたからだった。
  • しかし、貧困地域に住んでいる子供たちから、撮ろうとしていた貧しくて可哀そうな雰囲気は感じられなかった。

かわいそうな画を撮りたいと思っていたのに、あろうことか、子どもたちは目を輝かせて遊んでいて、楽しそうに夢を語っていたのです。日本は豊かだけど、日本の子どもはこんなに熱く夢を語れるのだろうかと疑問を抱くようになり、自身の生き方をも自問するようになりました
(出典) 「Warm Heart×Cool Headな事業経営 ~社会性とビジネスの狭間で~」WASEDA NEO

20歳頃 経済学のゼミに加入、山口絵理子と出会う

  • 山崎は、一連の貧困問題に対する活動の中で、問題を根本的に救うためには、経済学を学ぶ必要があるということを察し、竹中平蔵の経済学のゼミに加入した。
  • そこで、同じく貧困問題の解決に強い興味を抱いていた、後にマザーハウスを創業する山口絵理子に出会う。
  • 山崎は、山口の入ゼミの面接を担当した。「あなたの夢は?」と聞くと、「総理大臣になって世界の教育を変えたい」と答えが返ってきたことで惹きつけられた。

21歳頃 経済学にのめり込みすぎ、半分鬱状態で不登校に

  • 山崎は、家にこもって経済書を読み漁る日々が続くが、のめり込めばのめり込むほど貧困に対する世界の経済の仕組みの不合理さを知り、半分鬱状態になる。

22歳頃 イギリスへの旅で人間の価値観の多様さに気づく

  • そんな半鬱状態から脱却しようとイギリスに旅に出た山崎は、そこで人間の価値観の多様さに気づく。
  • イギリスのサッカー場では、人生をサッカー観戦に捧げているといっても過言ではない人々や、喜びや怒りを全力であらわにする人々を見た。
  • 山崎の価値観の中に、彼らと同じものはなく理解できなかったが、それでも人の価値観は多様で、幸せと感じる動機も様々だということを知る旅だった。
  • 「豊かさ」もまた、学問で定義づけられないということに気づき、心に余裕が生まれた。

私が大学4年間でいちばん学んだことは「好きこそものの上手なれ」。どんなに難しいことを勉強しても、結局私は大学に行けなくなってしまい、幸せになれなかった。幸せじゃない人が、世界を幸せに変えられるわけがない。それからすべてをポジティブに考えるようになった。
(出典) 「思いを持って仕事に臨む人に、成長曲線はかなわない だから年収が20分の1になろうと、素直に生きる。」TURNING POINT

社会人時代

23歳頃 ゴールドマンサックス証券入社

  • 山崎は、金融が大嫌いだったが、実際に仕事をしてたしかめるつもりで世界最大規模の投資銀行ゴールドマンサックス証券に入社する。
  • 日本とアジア市場を担当するアナリストとして仕事をしていたが、当時TOEICの点数が600点代だったこともあり、4年間死ぬ気で勉強して働く決意をしていた。
  • そして、その後は会社を退職して、バイクで大好きなアジア各国を旅するつもりでいた。生涯の活動のフィールドをアジアにしようとも思っていた。

 マザーハウス山口絵理子から運命的な連絡を受ける

  • ゴールドマンサックスで不自由ない待遇で働いていた山崎だったが、ある日大学のゼミの後輩だった山口絵理子から「バッグ」を買ってくれないかという連絡が来る。
  • 世界の金融機関の中でもトップと言われるゴールドマンに勤め不自由のない生活をしてい山崎とは対照的に、山口はバイト代を貯めて、途上国バングラディッシュで0から売れるか分からないカバン作りの事業を始めていた。
  • 日本でバックを売る術もなく、人脈も何もない山口は、ゼミの先輩で面接官を務めてくれた山崎に泣きすがる思いで連絡をしてきたのだった。
  • 話を聞くと、山口の事業の根本的な理念は、途上国の貧困の解決であり、それはまさに山崎が大学時代に熱い思いをはせていた問題意識だった。
  • 山崎は、自分の友人を家に集めどのようにすれば山口の事業がうまくいくかを一緒に考えた。
  • その議論を経て、山崎の心理にある変化があらわれ始める。
  • 社会人を始めて数年が経過し、時間と共に忘れがちになっていた貧困問題の解決という熱い思いが沸々とよみがえり始めていたのだった。

睡眠時間が削られようと、そこで意見を戦わせるのが本当に楽しかった。なぜそんなに楽しかったかというと、損得ではなく「思い」で仕事をしているからなんですね。だからこんなにパワーがあふれ出る。自分の思いで仕事をしているヤツには、成長曲線はかなわない。
(出典) 「思いを持って仕事に臨む人に、成長曲線はかなわない だから年収が20分の1になろうと、素直に生きる。」TURNING POINT

 100億円の債権を売るより、バッグを一つ売ることの難しさに落胆

  • 山崎は、ゴールドマンサックスで仕事を続けながら、空いている時間を見つけてマザーハウスの仕事を手伝っていた。
  • ある日、百貨店のイベントでマザーハウスのバッグを扱ってもらえることになり、山崎も販売会場でバッグを売ることになった。
  • これだけ思いを込めて作ってきたバッグなんだから売れるはずと思っていたが、結果は正反対だった。
  • バッグは一つしか売れなかったのだった。
  • 豊富な経済の知識、金融の最先端で働いているという経験はあっても、バッグ一つを売ることの難しさを知らなった自分に気づいた瞬間だった。

経営者時代

27歳頃 ゴールドマンサックスを退職、山口と共にマザーハウスを起業

  • 山崎は、年収は20分の1まで下がるが、超エリートキャリアを捨てて、名の知れぬベンチャー企業マザーハウスに参画する道を選んだ。
  • 山口と共に資金を出し合い、250万円で会社を設立した。
  • マザーハウスでは、何もかも自分達で進めていかなければならなかったが、山崎はここでも多くの気づきを得る。
  • 経済アナリストをしていたのに、誰がどのように物を作って、どのような経路を経てお店に並ぶのかという基礎的なことも知らなかったのだった。

 「正しさ」より「楽しいこと」で、お客さんが来店することを知る

  • 山崎は、マザーハウスの名がまだ知られていない時、バッグを売る以前にお客さんに来店してもらうことに苦労していたが、試行錯誤の末、その解決策は非常にシンプルだということに気づく。
  • 山崎がサンタのコスプレを着て店に立つと、それを面白がってくれる前職の先輩がお店によってくれたのだった。

32歳頃 創業5年目、弾劾裁判で自身のマネジメント対応を省みる。

  • 会社が成長軌道に乗っていた創業5年目の頃、副社長の山崎と社長の山口は、それぞれ別の役割を担っていた。
  • バングラディッシュの言語を操って現地の職人達を束ねる社長山口に対し、山崎は副社長としてマクロ的視点で会社の戦略などを考える役割を担っていた。
  • 無論、投資銀行でのアナリスト時代の経験でお金の計算やエクセルでの数字の算出に長けていることから、その役割を担っていたが、山口からは「あなたは頭が良いけど、愛がない」と言われていた。
  • 山崎は、投資銀行時代、外資系にあるフェアネス文化から、自分が正しいことを年齢・肩書関係なく言える風土で仕事をしてきていた。
  • そして、山崎はマザーハウスではマネジメント的立場にあるものの、その姿勢を中々変えることができず、「山崎さんは人の話を聞いてくれない」という声が上がってきていた。
  • そんな中、会社の成長に伴って一人ひとりの社員の負担は増加しており、ある日古参社員の2名が会社を退職してしまった。
  • この退職に対し、マザーハウスのメンバーたちは二人の退職の主な理由は山崎のマネジメント対応にあると指摘した。
  • しかし、山崎は公開弾劾裁判のようなこの状況で自分も頑張っていると反論したい気持ちをグッとこらえた。
  • 自分の気持ちやプライドを優先するのではなく、会社が良い方向へ進むよう、会社の理念が実現するため周りの意見を聞くことにしたのだった。

 月給18万円生活の実施

  • 社員が退職した理由の背景には、山崎のマネジメント以外に根本的な理由がもう一つあった。
  • それは、月給18万円という社員の給与の安さだった。
  • そこで、周りの意見に耳を傾けることにした山崎は、実際に社員と同じ給与額18万円で生活をしてみることにした。
  • すると、昼は吉野家やざるそばしか買えない現実を経験し、社員の苦しみを実際に理解することができた。
  • そこから、社員に最低300万円の給与を支払うためには売上をどこまで伸ばせばいいかを算出し、そこまで一緒に頑張ってほしいということを社員に共有した。
  • 社員の反応はネガティブだったが、これによって経営する側と社員が売上を伸ばすことに対する考え方の違いも認識し、人と向き合い意見を聞くというマネジメントとしての度量に磨きをかけるきかけになった。

 足りない部分を補い合う経営で順調に拡大

  • 山崎は現在でもマザーハウス副社長として、マザーハウスの理念実現に向けて邁進している。
  • 現場に出向き続け商品のデザインや品質に尽力する山口に対し、山崎はその他の業務取りまとめる参謀としてマザーハウスを支え続けている。

いまの社会自体、みんな素直じゃないと思うんです。喜怒哀楽を殺して生きている。「修行」として仕事を捉えている人も多い。あと「好きこそものの上手なれ」は真理だと思いますが、「自分の好きなことを見つけなければ」と強迫観念にとらわれて、見つけられないと自分を否定してしまうような傾向もある。私はいま30代前半ですが、本当に好きなことを見つけたなどとは思っていませんし、好きなものなんて10年も経てば変わります。いまの自分の価値観と素直に向き合って、まずアクションを起こすことが大切だと思いますね。
(出典) 「思いを持って仕事に臨む人に、成長曲線はかなわない だから年収が20分の1になろうと、素直に生きる。」TURNING POINT