イ・ヘジン LINE創業者

実業家

日本で最も普及しているチャットアプリ「LINE」の生みの親であり、韓国の大手検索エンジンNAVER(ネイバー)を創業したイ・ヘジン(李海珍)。彼がどのような人生を歩んできたのか、振り返る。

幼少時代

0歳 ソウルで出生

学生時代

19歳頃 ソウル大学コンピューターサイエンス学部入学

  • ヘジンは、サンムン高等学校を卒業し、ソウル大学でコンピューターサイエンスを学んだ。
  • 同級生としてソウル大学の学生生活を共に過ごしたのは、現カカオ社の社長であるキム・ボムスだった。
  • ヘジンとボムスはソウル大学を卒業した後も、不思議な縁で度々関わりを持ち続けることになる。

23歳頃 KAIST(韓国科学技術院)修士課程入学

  • ヘジンは、ソウル大学卒業後、KAISTに入学した。
  • 大学時代と同様コンピューターサイエンスを学び修士号を取得する。
  • 一方、ソウル大学時代の同級生だったキム・ボムスはソウル大学大学院で学んでいた。

社会人時代

25歳頃 サムスンSDSに就職

  • ヘジンは、大学卒業後、サムスン電子の子会社でITソリューションを手掛けるサムスンSDSに入社する。
  • 偶然にもソウル大学時代の同級生であったキム・ボムスも同社に入社し、社会人でも同期となった。
  • 入社後、インターネットサービスの開発プロジェクトに従事していたが、サムスン電子の上部からプロジェクトを中止するようにとの指示が届いてしまう。

 サムスン電子本社企画室を訪れ、「チャンスをくれ」と直談判

  • ヘジンは、インターネットサービスの開発プロジェクトの中止指示が届くと、サムスン本社を訪れ、中止の指示を受け入れらないことに加え、検索エンジンとコンテンツを前面に出し、一度に多くの人を惹きつけ必ず大きな利益を出すことができるという趣旨のレポートを提出した。
  • ヘジンは、「中止するのであれば、チームの仲間と共に退社する」と告知し、背水の陣だった。

30歳頃 サムスンSDS社内ベンチャーとしてNAVER(ネイバー)を開始

  • 結果的に、サムスンSDSの社内ベンチャープログラムの第1号企業として、ヘジンのプロジェクトは抜擢された。
  • ここで検索ポータルNAVERの初期バージョンを開発した。
  • なお、NAVERは「航海である」という意味のnavigateに人を意味する接尾辞「-er」を付けて「インターネットを航海する人」という意味である。

経営者時代

32歳頃 サムスンSDSを退社し、ネイバーコムを創業

  • ヘジンは、インターネットポータル事業でネイバーコムを創業。
  • 設立3ヶ月で100億ウォンの資金調達に成功する。

33歳頃 友人キム・ボムスが創業していたハンゲームを買収

  • 国内のインターネット市場は、Yahoo、Daum、Lycosがシェアの大半を占めていた。
  • ヘジンは、NAVERがシェアを高めるためには、高いクオリティとユーザーを囲い込めるコミュニティが必要だと考えていた。
  • 当時のハンゲームの会員数は1000万人で、コミュニティが出来上がっていたし、世界のゲームサイトで1位を占めるほど収益性がしっかりしていた。
  • 何よりハンゲームの創業者は、ソウル大学時代の同級生だったキム・ボムスであり、双方にとって信頼できる相手だった。

33歳頃 創業からわずか1年で日本進出を決める

  • ハンゲームジャパン、NAVERジャパンを別々に設立
  • ハンゲームジャパンを率いたのは、キム・ボムスの幼少期の同級生で、日本留学経験があったチャン・ヤンヒョンだった。
  • 渋谷の家賃7万5000円マンションの一室で始まり、ソフトバンクが仕掛けたブロードバンドの普及と同時に、ハンゲームは日本でも人気を博した。
  • 一方、ネイバージャパンの検索ポータルは全く普及せず、苦しむことになった。

34歳頃 社名をNHNに改名

35歳頃 NHNをコスダックに上場させる

36歳頃 ネイバージャパンとハンゲームジャパンを合併させ、NHNジャパンを設立

  • NEVERジャパンが検索ポータルだけで会社を維持できないため、ハンゲームジャパンと合併させ、NHNジャパンを設立。

40歳頃 会社を支えたキーマン、キム・ボムスとチャン・ヤンヒョンが退職

  • 両者の退職理由はともに、新たなネットビジネスを興すためだった。
  • キム・ボムスは、カカオ社の前身となるIWILABを創業し、チャン・ヤンヒョンは、モバイルサービス専業会社 Coconeを創業した。
  • その後の日本法人運営は、ソニー出身の森川亮に託された。

41歳頃 NHNジャパンの立て直しのため、シン・ジュンホを送り込む

  • ヘジンは、韓国本社で活躍していたシン・ジュンホに日本事業の立て直しを託す。
  • 検索とゲームだけでなく、様々なサービスを展開したが、2~3年間鳴かず飛ばずの苦しい状況であった。
  • 送り込んだシン・ジュンホも上手くいかない状況で、撤退の基準を教えてくれと相談してきた程だった。
  • そんな中、世の中にスマートフォンが登場してきた。
  • スマートフォンによって、メールでのコミュニケーションがチャットに変化し始め、米国ではワッツアップ、韓国ではボムスが手掛けたカカオトークが普及していた。
  • そんな中、日本でのチャットアプリ普及は遅れており、定着しているアプリが存在していなかった。そこで、チャットアプリの製作を決意する

44歳頃 東日本大震災に直面し、号泣するほどの苦心

  • チャットアプリ「LINE」の開発中に東日本大震災が起きた。
  • ヘジンは、長年苦しんだ日本での事業展開を大きく変える可能性があるとLINEの開発にチームで注力していたが、大震災に直面し、従業員を日本から韓国に送り返すか苦心した。
  • 多くの外国企業が従業員とその家族のために、一時的にでも母国に帰国させる選択をしていたが、ここでチームメンバーを帰国させることは、開発中のLINEが失敗することを意味していた。

日本大地震当時、事業を続けるべきか、スタッフを撤収させるべきか悩んだ。スタッフを帰国させれば、今までやってきた事業は失敗で、もうちょっと頑張ろうと言えば大きな危険に陥るほかはない状況で決定を下さなければならなかった
そのときは本当に、会社で重圧感のあまり大泣きした
(中央日報2019/06/19)

44歳頃 「LINE」をリリース

  • 東日本大震災でもLINE開発チームは解散せず、開発が続行されたため、LINEは正式リリースに辿り着いた。
  • 長年日本展開に苦しんだ教訓から、日本での成功には日本人の好みに合わせる必要があると考え、LINEにはワッツアップやカカオトークにはない可愛らしいスタンプを用意した。
  • 結果、LINEは多くの支持を集め日本で急速に普及していくことになった。

日本での検索事業は徹底的に失敗した。LINEというメッセンジャーが成功したのは、人、チームの力のおかげだった
(中央日報2019/06/19)

45歳頃 HNH JAPAN会長に就任

46歳頃 NHNをNAVERとハンゲームに分離

  • NAVERとハンゲームの合併から間もない頃は、ハンゲームの収益が会社を支えていた。
  • しかし、創業から10年以上が経過し、韓国ではNAVERが検索ポータルトップのシェアを獲得して収益比重も逆転していた。
  • 環境の変化に柔軟に対応するための意思決定体制を確立し、競争力を強化するため、ヘジンはNAVERとハンゲームを分離した。

既存の収益モデルを守っている企業は生命力が落ちる
(中央日報2019/06/19)

49歳頃 ニューヨーク証券取引所、東証一部に同時上場

  • ニューヨーク証券取引所に上場し、LINEはアジアを中心としつつも、欧米でも事業を強化しようという意思表示をした。
  • 上場によって、それまであまり公の場に出てこなかったヘジンも、少なからずの取材を受けたり、カンファレンスに登壇した。
  • そこでは、ここまで事業を続けてこれたのは、変化に合わせてスピーディに対応する「柔軟性」があるためであると語り、3年後の予測は不可能で、常に競合や新たなライバルに対して不安を抱えていることを吐露した。

経営理念についての質問をたくさん受ける。しかし、従業員にこれは我々の会社のビジョンである・哲学であると明快に話したことはない。
3年後どうなるかは知ることができないことだ。私たちの会社が生き残ったのは、柔軟だったからある。ビジョンが強ければ、組織は硬くなる。会社は急速に変化しなければならず、柔軟性を持たなければならない。
(2016/07/15、ネイバーインターネットデータセンター(IDC)で開かれた記者懇談会)

いつも怖いのは、米国で創業したインターネット企業だ。ネイバーが恐竜であれば、Googleはゴジラだ。創業18年になったが、米国で新たな技術やサービスが現れるのを見ると毎朝ストレスを感じている。
(2016/07/15、ネイバーインターネットデータセンター(IDC)で開かれた記者懇談会)

  • また、同業者で企業トップであったにも関わらず、なぜこれまで表舞台に出てこなかったのか、その理由も明らかになった。
  • ヘジンが語ったその理由は、決してメディアが嫌いだからではなかった。CEOとして外部の人と会食をするのが苦手な内向的な性格が理由だった。

ーところで、今回は海外メディアの取材としては初めてと聞きました。そもそも、韓国メディアの取材にもほとんど応じていないということですが、何か理由があるのでしょうか?

李ヘジン:これは自分の性格の問題だと思います。今、この場ではいろいろと話をすることができていますけれども、普段、大勢の社員の前で話す時でも、私はかなり緊張する性格で、本当にお腹が痛くなってしまうんですね。ネイバーを創業してから17年経ちますが、未だに治りません。

だから、創業する時、周囲から「社長に向かない」とよく言われました。かなり悩んで、自分を変えたいと思い頑張ったんですけれども、やっぱり基本的な性格は変わらないものです。ですから、私はサービスを作るなど得意なことに集中して、できないことはできないと認め、人に任せようという方針でやってきました。
(日経ビジネス「LINE上場、「トロイカ経営」の実像」)

通常の最高経営責任者(CEO)と比較すると、外部の人とよく会って活動的なものとは違って、私は内向的であることは事実。
初めて起業した時は(外部の人に会うと)ストレスがひどかった。だから昔は「CEO感がない」という話を耳にすることもあった。
(しかし)CEOに決まったスタイルがあるわけではない。私のような内向的な人間は、内部の人とたくさん会って、働いて、(従業員を)心配することができますから。
(韓国社会学会・韓国経営学会共同シンポジウムにて)