松下幸之助 パナソニック創業者

実業家

一代で日本を代表する電機メーカーパナソニックを築き上げた松下幸之助。彼の人生の岐路を振り返る。

幼少時代

0歳 和歌山県海草郡和佐村で誕生

  • 松下は、1894年11月、和歌山県の海草郡和佐村(現・和歌山市禰宜)で、父政楠、母とく枝の間に生まれた。
  • 8人兄弟の末っ子として、両親にかわいがられて育った。

学生時代

4歳頃 父が米相場に手を出したことで家財を失い、さらに兄弟を亡くす

  • この頃、父政楠は米相場に手を出し大失敗してしまった。瞬く間に家や土地を全て手放し、新しく下駄屋を始めたが、これも失敗。一家は窮乏した。
  • 追い打ちをかけるように、松下は、長兄、次兄、次姉を流行り病で相次いで亡くしてしまった。

6歳頃 和歌山市内の小学校に入学

  • そうして松下家の窮乏の中で、松下は市内の小学校に入学した。
  • 松下が2年生の時、父政楠は大阪へ移り、私立大阪盲唖院で職を得て、生徒の世話や雑務に従事した。こうした父からのわずかな仕送りで松下家は生活を続けた。

9歳頃 小学校を中退し、宮田火鉢店の丁稚に出される

  • 小学校4年の秋、父から、親しく付き合っている宮田火鉢店に丁稚へ行くよう手紙で勧められた。
  • 小学校卒業を目前にして、松下は早速丁稚に行くことになった。初めて乗る汽車や、大阪という都会に行くこと自体は知的好奇心をくすぐった。
  • しかし母が紀ノ川駅まで送ってくれ、涙声で大阪行きの乗客に自分のことを頼んだり、大阪へ行ってから主人にかわいがってもらうように伝える光景を、松下はいつまでも忘れることがなかった。
  • 丁稚先では、子守の合い間に火鉢を磨いたり、雑用を行っていた。火鉢を一日中磨き続けることもあり、幼い松下の手はたちまちすりむけ、はれ上がった。
  • しかしそれ以上に辛かったのは、親元を離れた寂しさだった。丁稚に出た当初は毎晩、床に入ると母の顔が浮かび、泣いてばかりだった。

10歳頃 五代自転車店で5年間丁稚を務めたあと、大阪電灯に入社

  • 当時、自転車は国産のものは少なく、ほとんどが舶来品であった。しかも価格も高く、珍しいものだった。彼は今までとは違ってハイカラな商品に囲まれた日々を送ることになった。
  • 店には旋盤やボール盤があり、さながら鍛冶屋でもあった。松下はこうした道具に囲まれる職場が好きで、毎日楽しく働いた。
  • そんな彼を、丁稚先の主人や夫人も我が子のようにかわいがった。
  • しかし、5年ほど勤めた頃、松下は転職を決意する。
  • 当時大阪市内全域を鉄道が開通したころで、それを見た松下は電気の時代が来ることを感じ、そちらを生業にしたいと考え始めていた。
  • しかし、まだ少年だった松下は、お世話になった主人に正直に打ち明けることができなかった。
  • そこで、「ハハビョウキ」と電報を打ってもらい、それを口実に五代自転車店を出て、後日、手紙を送って辞めさせてもらいたい旨を伝えた。
  • そうして、多少の後ろめたさ、申し訳なさを感じながら松下は五代自転車店を辞めた。
  • その後は桜セメントで3か月働き、無事大阪電灯に入社した。
  • しかし、五代自転車店との関係が損なわれることはなく、多感な時期を過ごした松下は懐かしさを感じ、休日ごとに手伝いに行った。

20歳頃 関西商工学校夜間部に入学へ通うも挫折

  • 1年間、18時半から21時半までの授業を続けて予科を終わった松下は、本科へ入った。
  • しかし本科は口頭筆記であり、小学校を中退した松下は、筆記が満足にできなかった。
  • 松下なりに努力はしたが、ついに挫折し中退してしまった。

22歳頃 お見合いで顔も見ずに結婚

  • 松下は22歳で妻むめと結婚した。当時既に松下の両親はこの世を去っており、長姉夫婦の世話でお見合いをすることにした。
  • 下宿屋のお母さんに頼み、松下は羽織を作ってもらい、松島の八千代座の表看板の下で、むめを待った。
  • しかし、そうこうしている間に周囲の人から注目を集め始め、松下は恥ずかしくなってうつむいてしまいった。
  • むめが来ても最後まで直視できなかった松下は、結局むめの顔を見ることもなく、結婚を決めた。

22歳頃 ソケットを作るために退職

  • 22歳になると、松下は異例の速さで電灯の検査員に昇格した。検査員は、担当者が行った仕事を検査し、直す必要があれば修正を命じるだけの非常に楽な仕事だった。
  • 同僚がうらやむ仕事だったが、松下は、あまりの楽さに、時間を持て余すようになった。
  • 折しもその頃松下は新しいタイプのソケットの開発を試みており、それをやりたいという思いが強くなってきた。
  • 結局7年間務め、せっかく検査員に昇格した大阪電灯を、松下はあっさり辞めてしまった。
  • 人を雇うお金もなかったため、妻むめの弟である井植歳男(のち三洋電機創業者)や松下の友人が手伝い、ソケットの開発は始まった。
  • オフィスは、松下の2畳と4畳半の狭い自宅の4畳半をさらに半分にして、土間にした部分だった。
  • 当初はソケットに使うネリモノの製法がわからず苦労したが、とことん調べ上げ、4か月の研究の末、ついにソケットが完成した。
  • ところが、肝心のソケットはさっぱり売れなかった。実績がなかったため電気屋が買い取ってくれなかったのだった。
  • 初めての売り上げは、扇風機の碍盤だった。扇風機メーカーが、従来陶器で作っていた碍盤を、ネリモノで作るよう頼まれたのであった。
  • 井植と協力して原始的な設備で1000枚を仕上げ、松下は自立して初めての利益を得たのであった。
  • 売上が年々増加していたため、1922年に同じ大阪市北区に、松下は本店・工場を設立した。
  • この頃には従業員が30人を超えるほどに事業は成長していた。

    出典:パナソニック株式会社

32歳頃 「ナショナル」ブランドの角型ランプやスーパーアイロンがヒット、昭和恐慌を乗り切る

  • 1922年、日本では中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生していた。日本中で金融の恐慌が起こり、倒産する企業も出た。
  • 松下電器が取引していたメインバンクの十五銀行も、支払い停止に陥った。ところが、松下は丁度住友銀行から一定金額の随時貸出契約を結んだところだったため、お金を引き出すことができ、首の皮一枚で助かった。
  • 資金繰りに成功した松下電器は、市場開拓に動いた。1927年、国民の必需品にしようという願いを込めて「ナショナル」ブランドで角型ランプを販売すると、大ヒットした。
  • また、当時は一般家庭にとって高価で手が届かなかったアイロンを改良し、安くてちょうどいい品質のものに変え「スーパーアイロン」と名付けて販売したところ、こちらもよく売れた。

    出典:パナソニック株式会社

    出典:パナソニック株式会社

34歳頃 社員を一人も解雇することなく昭和恐慌を乗り切る

  • しかしその後の昭和恐慌が松下電器の経営を苦しめた。売上が半減し、倉庫に在庫が積み上がった。当時従業員の待遇では全国一といわれていた鐘紡すら、賃金引き下げ争議を起こしていた。
  • その時、松下はある人から、従業員を半減したらどうかと打診を受けた。しかし松下は従業員を安易に解雇しなかった。
  • 結局、生産は即日半減し、工場は半日勤務とした。しかし従業員は一人も解雇せず、日給の全額を支給する。その代わり、従業員全員で休日も廃止して、ストック品の販売に努力するという方針を打ち出した。
  • この判断を社員は喜んだ。その結果、社員が一致団結して無休で販売に尽力し、わずか2カ月で在庫は全て売り切り、工場稼働の復旧にこぎつけた。こうして松下電器は無事昭和恐慌も乗り切ったのであった。

36歳頃 「水道哲学」を確立、14年目の創業記念日を設定

  • この頃の松下電器は、成長期を迎えていた。1930年にラジオの生産と販売を始め、それに付随する乾電池も直営にした。乾電池の生産をするために、競合企業を買収したりした。
  • 1932年には従業員は1200人、製造品目は200種類を超えており、なお拡大の途上にあった。
  • しかし松下の心は満たされていなかった。生産者の使命とは何か、答えが出ないまま日々考えをめぐらしていたのだ。そうして考え抜いたある日、生産者の使命は、水道の水の如く、この世に物資を満たし、不自由を無くするのが務めではないかという考えに行きついた。
  • この「水道哲学」に気付いた松下は1932年5月5日を創業記念日とした。開業してから14年が経過していたが、松下が自分の使命を知ったときとしてこの日を選んだ。水道哲学とは、それほどまでに松下にとって重要な気づきだった。

「産業人の使命は貧乏の克服である。そのためには、物資の生産に次ぐ生産をもって富を増大させなければならない。水道の水は加工され価あるものであるが、通行人がこれを飲んでもとがめられない。それは量が多く、価格があまりにも安いからである。産業人の使命も、水道の水のごとく物資を豊富にかつ廉価に生産提供することである。それによってこの世から貧乏を克服し、人々に幸福をもたらし、楽土を建設することができる。わが社の真の使命もまたそこにある」
(パナソニック 公式HP)

38歳頃 事業部制を導入

  • 1933年5月、松下は「事業部制」を導入した。工場群を、ラジオ部門、ランプ・乾電池部門、配線器具・合成樹脂・電熱部門という3つの「事業部」に分け、製品分野別の独立採算制の経営体制を敷いた。
  • 所主は体が弱かったこともあり、自分だけで会社経営の全部を見ることの限界を自覚して、早くから人に任せることを心がけてきた。任せると人は存分に創意と能力を発揮し、大きな成果を生んだ。
  • 当時こうした組織を持つ会社は他に例がなく、画期的な機構改革であった。パナソニックは「事業部制」を戦前から早くも採用し、経営の根幹をなす一大特色として定着させ、今日まで引き継いできたのである。

48歳頃 戦時下で、軍事製品を製造させられる

  • 1941年に太平洋戦争が勃発すると、松下電器は、軍事用に、木製の船や飛行機の製造をさせられることになった。
  • 終戦までに56隻の船と、4機の飛行機を製造した。
  • 戦時下で、自社の分野外の事業を手掛けたことは、戦後、松下電器の再発の歩みを遅らせる結果となった。

50歳頃 終戦、5年間何もできない日々を過ごす

  • 太平洋戦争によって、松下電器は32ヵ所の工場、出張所などが被災し、海外の工場や営業拠点はいずれも相手国に接収された。戦時中に26000人に達した人員の一部は徴兵後の解除に伴い離職し、15000人にまで減っていた。
  • しかし、松下電器の苦難はそれだけではなかった。
  • GHQの占領政策により、財閥指定をはじめ8つの制限が課せられ、経済活動はおろか、資産も動かせなくなってしまい、事業ができない事態に陥ってしまった。

55歳頃 労働組合に擁護され、公職追放を免れる

  • 1949年、松下電器に対する財閥指定が解除され、事業が再開できることとなった。しかし、戦時中軍需生産を行っていたため、松下はA級公職追放を告げられてしまった。
  • ところが、会社の労働組合が社長留任の署名活動を始めた。
  • 共産党の活動が激しかった当時にあって、社長を擁護するために従業員が署名運動をすることは極めて異例であった。
  • 猛烈な運動によって、A級公職追放に指定されてからわずか1か月後にはB級に変更となり、公職追放を免れたのであった。

55歳頃 借金だらけの中で、初めての人員整理を行う

  • 労働組合に擁護され、社長職に無事復帰したものの、5年間活動できなかったツケは大きかった。
  • 負債は10億円に達し、一時期は税金の滞納額で日本一になった。
  • また、創業以来、一度もしたことのなかった人員整理をせざるを得なかった。1万5千人の従業員のうち、3500人だけを残し、後は解雇した。
  • このような失意の中で、松下は繁栄によって平和と幸福を追求する、PHP運動を始めている。

56歳頃 3か月の米国視察に出かける

  • 1951年1月、松下は米国視察へ旅立った。今後世界的な視野に立って経営をするにあたり、世界で最も進んでいる米国の経営の在り方を学びたいとの思いがあった。
  • 米国の豊かさは想像以上だった。当時、松下電器の工員は、1か月半働いた給料でようやく自社製のラジオを購入することができた。ところが米国GE社の工員は、2日働くだけで自社製のラジオを買うことができた。
  • 当時の日本は電気の供給が足りておらず、東京では毎日一定時間を停電していた。それに対してニューヨークのタイムズ・スクエアでは、真昼でも電気がついていた。
  • 松下は、1か月の予定だった米国視察を延長し、約3カ月間滞在した。
  • 米国の繁栄ぶりを目の当たりにした松下は、帰国後、ふるい立つ思いで「日本も米国のような姿を生み出そう」と社員に呼びかけた。

    出典:パナソニック株式会社

57歳頃 フィリップスと技術提携

  • 1951年から、松下電器はフィリップスとの技術提携を本格的に検討し始めた。フィリップスとは、戦前から取引があり、終戦の翌年には取引再開をフィリップス側から申し込まれていた。松下は、前年に視察した米国の技術だけでなく、欧州の技術を取り入れることが松下電器の力になると考え、技術提携を進めることに決めた。
  • 双方が技術提携に前向きだったものの、交渉は難航した。フィリップスは、提携の条件として、新会社に対しイニシャル・ペイメント55万ドル、株式参加30%、技術指導料6%を要求した。
  • 松下は、技術指導料を一方的に支払うことに納得がいかなかった。技術を導入してもらうため、一定の技術指導料は納めるが、それならば、合弁会社を経営する松下電器には経営指導料を支払うべきと考え、これを要求した。
  • 前代未聞の申し入れにフィリップス社は困惑し、一度は破談になりかけた。
  • しかし、粘り強い交渉の末、技術指導料は4.5%まで引き下げられ、逆にフィリップス社は3%の経営指導料を松下に支払うという条件で妥結した。
  • その成果として、両社の合弁会社である松下電子工業株式会社が1952年に誕生した。世界有数の技術水準と規模をもつ新工場が大阪府高槻市に建設され、1954年から、電球、蛍光灯、真空管、ブラウン管、トランジスタなどの電子管、半導体の生産を始めた。
  • そして、松下電器は、これらの電子管や半導体を使用して、ラジオ、テレビなど、あらゆる種類のエレクトロニクス応用機器の品質を世界的な水準にまで高めた。

59歳頃 「犬のマーク」に価値を感じ日本ビクターを引き受け

  • ある時、日本ビクターの主要取引銀行である日本興業銀行から、松下のところで経営を引き受けてくれないかという話がもたらされた。
  • 戦争の後遺症で、当時日本ビクターは2500万円の資本金に対し、4億5000万円もの借金を背負っていた。松下は日本ビクターがどのような会社なのかよく知らなかったが、日本ビクターの犬のマークは頭に浮かんだ。
  • 現代も親しまれているあのマークは戦前から、子供にまで親しまれている、国民的な“のれん”であった。
  • その“のれん”に値打ちがあると考えた松下は、膨大な借金があることを承知の上でビクターを引き受けた。

    出典:株式会社JVCケンウッド

62歳頃 5年で売上を4倍にする計画を立て、社外に発表

  • 1956年1月、松下は戦後の酷い状況から経営再建が進んだことを受け、経営の5カ年計画を発表した。
  • 当時は企業が将来の目標を外部に堂々と発表するようなことは異例だったため、社員はみな驚いた。
  • しかし、松下は世の中に求められていることをその場で社員に説明し、それにふるいたった社員たちの尽力で、5か年計画は4年目にほぼ達成した。

67歳頃 社長を退任し、会長職に就任

  • 昭和36年1月の経営方針発表会で、突然松下は退任を発表した。
  • 本来は満50歳で退任しようと考えていたが、戦争と重なってしまい、ようやく辞めるタイミングがきたのであった。
  • ちょうど5ヵ年計画が無事に終了したタイミングであり、松下も満65歳を過ぎていた。
  • 新社長には松下正治副社長が就任し、その後松下は会長として松下電器の経営を支えた。