500社以上の事業立ち上げに携わり、日本資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一。彼がどのような人生を歩んできたのか、人生の岐路を振り返る。
幼少時代
0歳 誕生
- 1840年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・市郎右衛門元助と母・エイの長男として生まれた。
- 渋沢家は米、麦、野菜の生産を手がけるかたわら、藍玉の製造販売や養蚕も行っており、裕福な農家だった。
- 一般的な農家と異なり、藍玉や養蚕は、常に算盤をはじく商業的なセンスも求められた。
- 渋沢家に生まれたことが、幼い渋沢の商業のセンスを磨いた。
5歳頃 文武両道と商いを教えられる
- 5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や『日本外史』を学んだ。剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。
- また、それに止まらず、渋沢は実践的な商売を学んでいた。父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行っていたのだ。
- 尊王攘夷に燃えた若い頃の渋沢も、それ以降の商業センス溢れる渋沢も、幼い頃の教育が出発点となっている。
10代
14歳頃 一人で藍葉の仕入れに出かける
- 14歳になった渋沢は、父と2人ではなく、1人だけで藍葉の仕入れに出かけるようになった。
- この頃にたった1人で各地を回り、商売上の意思決定をしていたことが、後の渋沢の商業センスや決断力、行動力の礎となった。
18歳頃 従妹の尾高千代と結婚するも、単身京都へ
- 渋沢は19歳の時には従妹の尾高千代と結婚したが、時は幕末。
- 渋沢は尊王攘夷思想に染まり、その後すぐに家を出て行ってしまったため、平穏な新婚生活は長く続かなかった。
21歳頃 江戸に進出し、尊王攘夷思想に染まる
- 1861年、渋沢は江戸に出て海保漁村の門下生となった。
- また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結んだ。
- 若き渋沢は、尊王攘夷思想に染まっていった。
24歳頃 尊王攘夷に行き詰まり、一橋慶喜に仕える
- この頃、尊王攘夷が高じて渋沢は京都まで行った。
- しかしこの頃は、八月十八日の政変が起き、既に勤皇派が凋落した後だった。
- そのため、京都まで行きながら、渋沢は勤皇志士としての活動に行き詰まってしまった。
- そこで、江戸遊学中に交際していた一ツ橋家家臣の紹介を受け、勤皇派から一転、一橋慶喜に仕えることとなった。
- 仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集を行うなどの仕事も行った。
26歳頃 一橋慶喜が将軍となったことで、幕臣となる
- 1866年、主君の一橋慶喜が第15代徳川家将軍となったことで、渋沢も幕臣となった。
27歳頃 パリ万博使節団として渡欧し、欧州視察
- 1867年、パリで開催された万国博覧会に出席する幕府側の随員として、渋沢も渡欧した。
- フランスだけでなく、欧州各国を視察した渋沢は、先進的な産業・軍備を見て感動するとともに、社会を見て感銘を受けた。
28歳頃 帰国し、初めての起業する
- 渋沢がまだ欧州視察を行っていた1868年、日本では大政奉還により政治の実権が江戸幕府から明治政府に移った。
- 翌年帰国した渋沢は、静岡で謹慎していた徳川慶喜に面会し、静岡藩からの出仕を求められ、これに応じた。
- しかし、慶喜からは「これからはお前の道を行きなさい」という言葉を貰った。
- 静岡に残った渋沢は、欧州視察中にフランスで学んだ株式会社制度を実践するため、また新政府からの借金を返済するために、1869年に静岡で商法会所を設立した。
- これが、渋沢の記念すべき初めての起業となった。
- 商法会所では、明治政府から静岡藩に渡された貸付金を元手に、肥料や米柄を仕入れ、静岡からはお茶や和紙を出荷するという事業を行った。
29歳頃 明治政府に仕え、租税制度の策定にかかわる
- 慶喜のいる静岡で産業振興に努めていた渋沢であったが、大隈重信に説得され、1869年10月から明治政府に勤めることとなった。
- 初めに民部省(財政・租税を管轄する省、事実上大蔵省と統合)で租税制度の制定に取り組んだ。
- 渋沢が手掛けたものに「北海道産物料理規則」があり、北海道産物に対しては入港時に価格を量定して4%の課税をする、不正があった場合には産物は没収・売却して窮民救済に充当させる、などの規程を定めた。
30歳頃 度量衡(長さや重さを測る単位)を一新する
- 1870年、明治政府は近代化を進めるため、江戸時代に使われていた「尺」「斤」といった長さや重さを測る単位を一新することを決め、度量衡改正掛という部署を設置した。
- 渋沢はその一人に任命され、新たな度量衡制定に携わった。
- 今ある「メートル」や「グラム」といった単位は、渋沢とその同僚が定めたものだ。
30歳頃 官営富岡製糸場の設置に尽力する
- 1870年、渋沢や、大蔵省にいた伊藤博文が担当となり、富岡正市場の設立計画が進められた。
- 農家出身で幼少の頃から養蚕ビジネス、蚕桑や蚕種に詳しかった渋沢は、富岡製糸場設置主任に任命され、工場建設に尽力した。
32歳頃 国立銀行条例制定に尽力
- 1872 年、明治政府は国立銀行条例を制定した。
- 明治政府は維新当初に政府紙幣を乱発していたため、価値が低下した様々な紙幣が出回っていた。
- そこで、渋沢は1872年に国立銀行条例を制定。
- しっかりとした価値のある兌換銀行券を流通させて通貨価値の安定に努めた。
32歳頃 大蔵省紙幣寮(現・国立印刷局)の初代紙幣頭(現・理事長)に就任
- 1872年、大蔵省では紙幣寮(現・国立印刷局)が設立され、渋沢は初代紙幣頭(現・理事長)に就任した。
- 創設当初の業務は紙幣の発行、交換、国立銀行(民間銀行)の認可・育成等紙幣政策全般だったが、次第に米国やドイツに頼っていた紙幣製造も自前化することとなった。
33歳頃 日本初の銀行である第一国立銀行(みずほ銀行の元となった銀行)設立、総監役に就任(のち頭取)
- 1873年、渋沢は日本初の銀行である第一国立銀行を設立した。
- この第一銀行を手始めに栄一は、資金を拠出して利益を株主に還元する合本主義により500を超える会社を育てた。
- その範囲は銀行、保険、海運、造船、通信、製糸、製糖、ビール、鉄鋼、化学、電気、ガス、セメント、倉庫、ホテルなどすべての分野に及んだ。
- さらに、第一銀行のほか、王子製紙、渋沢倉庫、秩父セメント、帝国ホテルなどは渋沢が直接、関与したものである。
33歳頃 抄紙会社(のちの王子製紙)設立、取締役会長に就任
- 1873年、渋沢は大蔵省紙幣寮から独立させる形で、日本初の印刷会社である抄紙会社を設立した。
- 欧州を視察した際に、技術や知識の水準の大きな差を思い知った渋沢は、国民の知識水準を引き上げることが急務だと考え、紙媒体での情報・知識伝達を促したのであった。
35歳頃 商法講習所(現一橋大学)設立
- 1875年、駐米日本代理公使を終えて帰国した森有礼が、渋沢栄一の協力を得て、銀座尾張町に商法講習所を設立した。
- 駐米日本代理公使だった森有礼は、諸外国と競争していく中で商業を専門に教える学校の必要性を感じていたが、資金が不足していたため、東京会議所会頭だった渋沢に資金の工面をしてもらい、開校にこぎつけた。
38歳頃 東京商法会所(現東京商工会議所)設立、初代会頭に就任
- 当時、明治政府は、富国強兵と殖産興業を進めており、海外輸出強化のための商工業者の機関を必要としていた。
- また、不平等条約改正の取り組みの中で、「日本には商工業の世論を結集する代表機関がなく、世論を論拠とした明治政府の主張は虚構にすぎない」諸外国から批判を浴びたため、伊藤博文、大隈重信が渋沢栄一に商工業者の世論機関の設立を働きかけ、渋沢は東京商法会所を設立した。
39歳頃 大阪紡績会社(現在の東洋紡)設立に尽力
- 1879年、渋沢は 山辺丈夫(初代社長)や藤田伝三郎、松本重太郎等とともに、紡績事業計画を策定した。
- この努力によって、3年後の1882年に東洋紡は開業することができた。
42歳頃 共同運輸会社(現・日本郵船)
- この頃、三菱の海運事業「郵便汽船三菱会社」が値下げ攻勢で勢力を広げ、欧米系の船会社と日本国内の中小の船会社も全て追い出してしまった。
- その結果独占的な地位を得た郵便汽船三菱会社は、一転して値上げに転じ、莫大な利益を上げていた。
- これに対し渋沢は、井上薫らとともに、三菱に対抗できる海運会社の設立を画策した。
- 東京風帆船会社、北海道運輸会社、越中風帆船会社の三社が結集して1882年に共同運輸会社(現・日本郵船)が発足した。
44歳頃 日本鉄道会社(現・JR)理事委員に就任
- 1884年、渋沢は、日本初の民間鉄道会社である鉄道会社の理事委員に就任した。
- 日本鉄道会社は、のちにJRの東北本線や高崎線、常磐線などの路線の多くを建設・運営した。
45歳頃 共同運輸会社が郵船汽船三菱会社と合併し日本郵船会社創立
- 1882年に共同運輸会社が設立されて以来、2年半にわたる郵船汽船三菱との値引き合戦により両社は疲弊していた。
- そこへ1885年、三菱の創設者岩崎彌太郎が死去したことを受け、渋沢は両社を合併させ日本郵船会社が設立された。渋沢はのちに取締役に就任した。
45歳頃 東京瓦斯会社創立、創立委員長に就任する(後に取締役会長)
- 1882年、渋沢は浅野らとともに東京会社を創立し、創立委員長に就任した。
- 渋沢はもともと東京商法会所の会頭を務めていた1878年からガス事業を運営していた。
- その後事業が東京府に引き渡され、渋沢はそこでも東京府ガス局の局長してかじ取りを行っていたが、民間に払い下げられることとなり、当時、ガス工場の廃材であるコークスのやり取りで成功していた浅野総一郎と共に1885年に東京瓦斯会社を設立した。
47歳頃 札幌麦酒(現在のサッポロビール)設立、経営委員長に就任
- ロシアの南下政策への対抗策として設置された開拓使は、殖産興業に燃える新政府の切り札として大いに期待され、外国人技師の招へいが行われて「開拓使麦酒醸造所」を含む30種以上の官営工場が開設されていた。
- 企業そのものを支援するのではなく、産業振興を目的としていた渋沢は、ジャパンブルワリーに引き続きサ札幌麦酒で経営委員長に就任し、立ち上げにも尽力した。
56歳頃 京釜鉄道会社の設立に尽力
- 朝鮮半島開発のため1896年鉄道敷設権を獲得した大三輪長兵衛等実業家らとともに渋沢は、京城・釜山間の鉄道敷設を目的に京釜鉄道を設立した。
57歳頃 澁澤倉庫部開業(後に澁澤倉庫会社)
- 様々な産業の創立にかかわった渋沢は、その動脈となる物流や倉庫業の重要性も認識していた。
- そのため、1897年、自ら営業主となって澁澤倉庫部を創業し、1909年には、組織を改め澁澤倉庫会社を設立した。
57歳頃 日本勧業銀行(現・みずほ銀行)を設立
- 1897年、渋沢は不動産を担保に長期資金を供給する日本勧業銀行を設立した。
62歳頃 日本興業銀行(現・みずほ銀行)の設立に尽力
- 1902年、渋沢は日本興業銀行設立委員として、動産担保の貸付を行う日本興業銀行の設立に尽力した。
66歳頃 東京電力会社を設立
- 明治初期に工部大学校の英国人教師及び学生は実業家に電気事業創設を提案、それを受け渋沢栄一らは1882年東京電灯会社を設立し、東京に火力発電所を建設して電力供給を始めた。
- 栄一はその後各地の電力会社設立に尽力し、1906年に東京電力を設立し、東京電灯を吸収した。
66歳頃 京阪電気鉄道会社(現・京阪電鉄)設立
- 1910年に、現在の京阪本線にあたる、天満橋~五条(現在の清水五条)間を開業させ、創立委員長に就任した(後に相談役)。
- この京阪電鉄や上述の日本鉄道のみならず、渋沢が直接関わった鉄道事業者は71社に上るといわれる。