蟹江一太郎 カゴメ創業者

実業家

日本におけるトマト加工だけでなく、近代的農産物加工業の開拓者である、カゴメの創設者、蟹江市太郎。50年に渡り社長として事業を広げてきた彼がどのような人生を歩んできたのか、人生の岐路を振り返る。

幼少期

0歳 誕生

  • 1875年、愛知県知多郡名和村(現東海市)で農家の父佐野武八、母やすの間に生まれた。

小学校時代 母の死を契機に家業の手伝いにするため自ら小学校を退学

  • 蟹江は7歳で地元の名和学校に入学し、平穏な暮らしを送っていたが、8歳の時に母やすが亡くなると、一気に家計が苦しくなり、蟹江は幼い弟の面倒や炊事といった家事に追われることになった。
  • 当時は米価が下がり農家にとって生活が苦しくなり始めていた。
  • 10歳になり父親の苦労が一層理解できるようになった蟹江は、自ら申し出て名和学校を退学した。

少年時代 農業経営の大変さを実感

  • 蟹江の十代は、農家にとって経営環境が悪化の一途を辿った時代だった。
  • 米価が下がり続け、如何に労力をつぎ込んで作物を作っても、まともな生活を送るだけの収入を得ることはできなかった。
  • 蟹江は少年ながら、鉄道工事の日雇い労働などをしていた。
  • 子供ながらに、旧態依然とした農業経営を続けていては、貧しさから脱却できないことを感じた。

青年期

18歳頃 地元の農家蟹江家に婿入りし養父甚之助とともに働く

  • 1893年、蟹江は地元の農家蟹江甚之助の娘きくと結婚した。
  • 養父甚之助は進取の精神を持っており、もともと養蚕を行っていたが、当時まだ愛知県では珍しかった蜜柑の栽培に手を出していた。
  • また、甚之助は蟹江に仕事が終わった後に私塾に通って学ぶよう勧めた。
  • そのため、蟹江は日中は農家として働き、夜は私塾の岩屋塾に通っていた。
  • 必ずしも農業に直結している内容ではなかったが、四書五経を学んだ。

20歳頃 軍隊生活で西洋野菜に出会う

  • 1895年、蟹江は徴兵され、名古屋六連隊に3年間入隊し、そこで、当時珍しかった西洋野菜に出会った。
  • 兵役を終えて除隊される直前、蟹江は上官から、西洋野菜の栽培を勧められた。
  • 日本の農家がみな同じ作物を作っては生産過剰で価格が下がるため、今後はまだ作り手がいない西洋野菜を作るよう助言を受けた。
  • 旧態依然として農家経営に限界を感じていた蟹江は、それを金言と受け取り、郷里に帰って実行することに決めた。

西洋野菜生産への挑戦期

24歳頃 義父と二人三脚で西洋野菜の栽培を試みる

  • 除隊されて戻ってきた蟹江は暫く構想を練ると、ある日義父甚之助に西洋野菜の栽培をしようとしていると打ち明けた。
  • 甚之助は進取の精神の持ち主であったため、蟹江にいくつか質問し、洋食が浸透し始め徐々に西洋野菜の需要が伸びているが作り手がまだいないこと、販売先は名古屋の大きな青物商や西洋料理店、ホテルなどを構想しており、蟹江がそこまで野菜を運ぶことまで考えていたことがわかると、すぐに賛成した。
  • 甚之助は早速知人に相談すると、名古屋の農事試験場の研究者に伝手を作り、蟹江に尋ねるように命じた。
  • 蟹江が彼を訪ねると快く応じてくれ、蟹江に知識を伝えた。翌年春、トマト、キャベツ、レタス、パセリ、ハクサイ、ダルマニンジン、タマネギなどの種子を手に入れることができた。

24歳頃 西洋野菜の収穫販売に成功するも、トマトだけはさっぱり売れず

  • 西洋野菜の種子を手に入れた蟹江は、義父甚之助とともに栽培をし、丹念に野菜を育てた。
  • 心躍る気持ちで初物を収穫すると、神前にそれらを供え、その後家族で食べた。
  • ハクサイやレタスは風味が珍しく、手を加えればいけると感じたが、トマトやタマネギなどは、当時の日本人にとっては耐え難い臭み、舌を刺すような酸味で、とても食べられたものではないと感じた。
  • 蟹江は意気揚々とトマトの栽培を始めたものの、いざ食べてみると、果たしてこんな味のものが受け入れられるだろうかと不安を感じ始めた。
  • 蟹江が住んでいた農村部では西洋野菜がさっぱり売れなかったが、名古屋の都市部では食の西洋化が進んでおり、生産者がまだいなかったことから高値で売れた。
  • これによって蟹江はトマト加工の原資を稼ぐことができた。
  • しかしトマトだけは、その強烈なにおいと味のせいで、売れ行きが悪かった。
  • トマトをいかに売るかが、蟹江の課題となった。

トマト生産への挑戦期

28歳頃 初めてトマトの加工品のトマトソースを作る

  • トマト栽培を創めて4年経っても、相変わらずトマトだけは売れ行きが悪く、在庫が残ってしまうこともよくあった。
  • そんな時、知人から売れ残ったトマトは加工すればいいと助言を受けたが、当時の日本で具体的にどのようにトマトを加工すればよいか知っている人はいなかった。
  • そんなある日、蟹江はトマトを日本人の口に合うよう調理してから売ればよいのではないかと考えた。当時西洋野菜はサラダとして生食することが多かったためこの蟹江の発想は新しかった。
  • 蟹江は調理されたトマトはどのようなものか、伝手を頼って、名古屋の様式ホテルから舶来のトマトソースを1缶分けてもらった。
  • やっと手に入れたトマト缶を家族全員で味見してみると、どうやらそれをトマトを煮たもので、生で食べるよりも臭みがなく食べやすいということがわかった。
  • 当時の日本人にとって、トマト缶やトマトソースは見たこともない新しい食べ物だった。
  • 家族4人で収穫したトマトを煮てトマトソースを作ってみると、舶来品よりおいしかった。買い手は少なかったが、西洋料理店が「おいしい」と評価し買ったほか、梅沢商店が大半を買い取った。

29歳頃 日露戦争へ出征、脚気を患い生死の境をさまようも生還

  • 1904年、日露戦争の勃発に伴い徴兵された蟹江は、満州各地を転戦した。
  • 途中で脚気を患い、野戦病院で生死の境をさまよったが奇跡的に命は助かり、1905年、日露戦争の終結とともに除隊され帰国した。

31歳頃 自宅の敷地内に工場を建設し、トマト加工を本格化

  • 戦争から帰還した蟹江は、念願だったトマト加工を本格化した。
  • その頃、蟹江がいた村では、収穫したトマトをちゃんとした価格で買い取りさえしてくれれば、栽培したいという農家が生まれ始めていた。
  • そこで、蟹江は栽培を彼らに委託し、自らは桑畑を工場に変えて、加工に専念することにした。
  • 除隊されたときに国から渡された一時金と、義父甚之助の蓄えを原資に、工場建設を始めた。
  • 1か月もたつと無事に工場が稼働をし始め、立ち上げは順調に進んだ。
  • しかしこの頃の蟹江は、近所の農家からの評判に心を悩ませた。
  • 婿養子の蟹江が7代続いた蟹江家の桑畑を工場に変えてしまった、おとなしく農家をやっていればいいのに、という評判が立っていた。
  • 蟹江は自分でリスクを負ってトマト加工に舵を切ったが、こうした無責任な世間の声を聞き、絶対に蟹江家をつぶすわけにはいかないという思いを一層強くした。

「おとなしく百姓をしていれば、と世間は言うが、自分は百姓をやめるつもりは全然ない。トマトソースをつくるのは、百姓をやめてトマトソース屋になるためではない。自分のつくるトマトをより有利に売りさばくために、トマトソースに加工しているのだから、自分はあくまで百姓としてトマトソースをつくっているのだ」

33歳頃 トマトケチャップの生産を開始し、成功する

  • 1908年、蟹江はトマトケチャップの生産を開始した。
  • 当時の日本で、蟹江は初めてトマトケチャップを量産した日本人であった。
  • ケチャップの生産には様々な材料が必要で、中には輸入しなければ手に入らないものもあった。
  • しかし蟹江は梅沢商店との縁が深かったため、シナモン、ナツメグ、胡椒といった材料を取り寄せることが可能だった。

37歳頃 不況とライバル企業の続出で経営危機に

  • 当時、蟹江の工場は高度な設備があるわけではなく、日雇い労働者によって成り立つ労働集約的なものであった。
  • 参入障壁が低かったため、日雇い労働者たちは蟹江の工場で製造のノウハウを学ぶと、自分でトマト加工業を始める人が続出した。
  • そのため愛知県ではトマト加工業者が乱立し、生産が過剰になったために販売価格が暴落した。
  • 折しも不況の波も襲い掛かり、蟹江は1911年にトマトソースの在庫1000箱を抱える経営不振に陥った。
  • 初めて銀行から借金をしている。

農家から加工業者への転換期

39歳頃 愛知トマトソース製造合資会社を設立、農民から加工業者へ

  • 不況を乗り切ろうと、蟹江は同族3名で思い切って愛知トマトソース製造合資会社を設立した。
  • しかしこの頃はまだ不況が続いており、トマトソースの在庫は1500箱を超えた。

41歳頃 不況が底をついたのを見極め、一気に事業を拡大

  • もともと農民だった蟹江は、生涯「漸進主義」を掲げ、投機的な経営を好まなかった。
  • しかし1916年、不況が底をついたと判断すると、一挙に資本金を10倍の3万円まで増やし、工場を拡張するとともに、農商務省技官関虎雄を顧問に招き、製品の品質改良と工場設備の近代化に着手した。

42歳頃 カゴメ印を商標登録

  • 競合との競争が激化する中、蟹江は自社の商品を販売するときに商標が必要だと考えた。
  • 当初蟹江は丸に星をつけたものを希望したが、当時星は陸軍を象徴していたため許可がおりず、仕方なく星に近い籠目の形を採用した。

45歳頃 新工場を建設し、自動裏ごし機を導入

  • 1919年、蟹江は蟹江家の田畑家屋の大半を担保に銀行から資金を借り入れ、700坪の工場建設に踏み切るという勝負に出た。
  • 蟹江自身は農業という仕事を愛していたが、半農半工で中途半端な形で加工に取り組んでいたのでは、もはや競合との競争を勝ち抜くことは不可能だった。
  • 当時、トマトの裏ごしは、工員が足でペダルを踏むことで行われるようになっており、半自動化まではされていた。
  • しかし蟹江は近代的製造業に生まれ変わるため、この動力源を完全に機械に切り替える決断をした。

48歳頃 愛知トマトソース製造株式会社に改組

  • 新工場の建設によって生産能力と生産性を飛躍的に向上させた蟹江は、1923年、愛知トマトソース製造合資会社を改組して株式会社化した。
  • 愛知トマトソース製造会社は、既に業界のリーダーとして盤石な経営基盤を築いており、事業は好調であった。

53歳頃 地方政治家としての任を実直にこなす

  • 1926年、周囲に推される形で蟹江は上野村村会議員に当選し、4年間つとめた。
  • また、1939年からは県議会議員を2期8年間務めた。
  • もともと実直な農民だった蟹江は、派手な公務よりも裏方の仕事を好み、縁の下の力持ちとして議員の役割を全うした。

66歳頃 戦時下で軍需調達工場化

  • 太平洋戦争がはじまると、蟹江の事業も、国のためのものに鞍替えすることとなった。
  • 終戦までの間、そこで軍需用の缶詰や航空機の部品などを製造することとなった。

70歳頃 終戦、そして事業再建

  • 戦争の終結とともに、元の食品加工をするために経営再建を始めた。
  • 幸いなことに、蟹江の持っていた工場の多くは戦火を免れており、失ったのは満州と天竜工場の2つだけだった。
  • 蟹江は、上野工場をはじめ持っていたすべての工場をフル稼働させ、戦後の困難な食糧事情の改善に努めた。

82歳頃 米国視察

  • 1957年、蟹江は米国に渡り、トマトの栽培地や加工工場を見学した。
  • 蟹江が初めて手にしたトマトの種子は米国から取り寄せたポンテローザであったし、トマト産業の故郷はアメリカという意識が蟹江にはあった。
  • 当時国内ではリーダー的存在であったが、米国の加工工場の持つ圧倒的な生産量と機械化の進展度の蟹江は刺激を受け、さらに事業を先進かさせなければならないと決意した。

「この見学旅行には、訪問された先のほうがまず驚いたようである。八十二歳の老人が、杖も引かず、はるばる日本から訪ねてきて、しかも物見遊山ではなく、農場や工場を意欲的に見て歩くのだから、驚くのがあたりまえである。ハインツ、リビー、リッチモンド、デルモンテ、コントデーナ、キャンベルなど、普通は同業者の来訪をきらうアメリカの大手も、市太郎の前には門戸を閉ざさなかった」
(「一業一人伝 トマト加工の先駆者 蟹江市太郎」福田兼治、1974年、時事通信社)

88歳頃 カゴメ株式会社に社名を変更、50年務めた社長を引退

  • 米国視察を終えた蟹江は組織体制や工場の一切を改革するように命じた。
  • その成果として、愛知トマト株式会社は、カゴメ株式会社に生まれ変わり、蟹江は50年もの長きにわたり務めた社長職を後進に譲った。