山内博 任天堂創業者

実業家

横井軍平、宮本茂、岩田聡等の逸材を用いながら任天堂を京都の花札屋から、一躍世界のゲーム会社に成長させた中興の祖山内博。彼がどのような人生を歩んできたのか、人生の岐路を振り返る。

幼少期

0歳 誕生

  • 1927年、京都で父鹿之丞、母君の間に生まれた。花札を主力製品とする合名会社である山内任天堂を経営する山内家の跡継ぎであった。

少年時代 5歳で父が蒸発するも、経済的には何不自由なく暮らす

  • 山内が5歳の時、父鹿之丞は母と山内を残して蒸発してしまった。
  • しかし裕福な家庭に生まれた山内は、高校が終わるまで、地元の京都で不自由なく育った。

18歳頃 早稲田大学法学部に進学

  • 1945年、「ぼんぼん」だった山内は、「東京で遊びたい」という理由で高校卒業と共に早稲田大学法学部に進学した。
  • 渋谷の高級住宅街である松濤に山内家が買い与えた一軒家に友人と暮らし、ビリヤードなどの娯楽に興じたり、ワインを楽しむなど、東京での生活を謳歌した。

22歳頃 任天堂の3代目社長に就任、次々と人を解雇して自分のやりやすい環境を整える

  • 山内が大学4年生だった時、2代目社長の山内積良が突然病に倒れた。
  • 他の親族を任天堂から排除することを条件に、山内は若くして社長に就任した。そのため、既に任天堂に勤めていた山内のいとこは、解雇された。
  • 大学を出たばかりの若造である山内に反抗的な社員もいたが、そうした社員を山内は次々解雇していき、自分のやりやすい経営環境を作り出していった。

26歳頃 プラスチック製トランプをヒットさせる

  • 山内は社長に就任してから会社の近代化を進めた。
  • 山内が社長になったとき、任天堂の主力製品だった花札は、数百もの内職先に材料を配り、手作業で作るという工程で作られていた。山内は製造の近代化を進め、工場を建設すると、1953年にはプラスチック製のトランプの製造に成功した。
  • 曲がりにくく、折れにくいトランプはヒット商品となり、任天堂の成長に貢献した。

32歳頃 キャラクタートランプで新たな市場を切り開く

  • 当時、トランプに印刷されている絵柄は、ハートやスペードの記号と数字に、幾何学模様を組み合わせた定番のものばかりで、どの会社も似たようなものばかりだった。
  • これに着目した山内は、米ウォルトディズニー社と交渉し、ミッキーマウスなどの人気キャラクターを使った「ディズニートランプ」を発売した。
  • すると、それまで大人が主な顧客だったトランプが、子供にも人気となり、顧客層が増えたことで爆発的に売れた。
  • 山内は若くして、「ソフト」な魅力によってヒットを生むセンスを持ち合わせていた。

35歳頃 大阪証券取引所2部京都証券取引所に上場するも、経営が迷走し苦境を迎える

  • 順調に業績を伸ばしていた任天堂は、1962年に大阪証券取引所2部、京都証券取引所にそれぞれ上場した。
  • しかし直後、任天堂は経営危機に陥った。高度経済成長を果たした日本人の娯楽は多様化し、任天堂の成長を支えたトランプの売り上げは減少していった。
  • 困った山内はタクシー会社、食品会社を設立したり、簡易複写機、電卓、文房具、果てはラブホテルまで多角化を進めたが、いずれも鳴かず飛ばずで、一気に経営は悪化していった。

38歳頃 天才・横井軍平が「偶然」任天堂に入社

  • そんなどん詰まりの1965年に、その後任天堂を大きく躍進させる横井軍平が入社した。
  • 横井は同志社大学の工学部電子工学科で学んだ学生で、当時は大手家電メーカーへの就職を志望していた。
  • しかし学生時代に社交ダンス、音楽、ダイビング、ドライブなどに熱中し学業にはそれほど打ち込まなかった横井は、家電メーカーを悉く不採用になってしまった。
  • そこで、あまり深く考えずに地元の企業である任天堂を受けたところ、受かったので入社した。
  • 任天堂側も、当時まだ花札やトランプを売っているような会社で、電子工学の知識が活かせる業務は全くなかった。
  • 任天堂の理工系新卒入社の第1号となった横井だが、なぜ横井が任天堂に入社したのか、なぜ任天堂も採用したのか、今となってはよくわからない。

39歳頃 横井が開発した「ウルトラハンド」「ウルトラマシン」等がヒット

  • 入社後横井はカードを製造する工場設備の保守点検業務に従事していた。
  • 暇を持て余した横井は、旋盤を借りて、格子状に組んだ骨組みが伸縮するおもちゃを作って遊んでいた。
  • するとそれが山内の目に留まった。
  • 山内から社長室に呼びつけられた横井は、当初山内に怒られるものと思っていた。
  • しかし山内は逆に、それを商品化するよう命じた。
  • そうして生まれたのが、遠くのものを掴んで引き寄せる「ウルトラハンド」であった。
  • 1966年に発売されると、100万個以上売れる大ヒット商品となった。
  • その直後に山内は任天堂に「開発課」を設立すると、横井をいきなり責任者にした。
  • 横井は1968年には部屋の中で遊べる「ウルトラマシン」を開発すると、またヒットとなった。
  • 横井が入社し、山内が横井を引き上げたことで、苦境に立っていた任天堂に一筋の光が差し始めていた。

「社長が、社員が遊んでいるものを見て「商品化しろ」なんて言ったのは、初めてのことでしたね。呼び出されたときは、もうすっかり怒られるんだと思ってました。そのとき、社長から「任天堂はゲームメーカーなのだから、ゲームにしろ」と言われたんですよ。あんなもんゲームにならないですよ。ただ、伸びて縮むだけなんですから。これをゲームにするにはどうしたらいいだろうかと、ずいぶん悩みました」- 横井軍平の回想-
(「ゲームの父横井軍平伝」牧野武文、2009年、角川書店)

46歳頃 オイルショックで「レーザークレー」が失敗し、大損害を被る

  • 1970年、横井が開発したエレクトロニクス玩具「光線銃」がヒットしたのを見て、山内はこれを競技化しようという大きな賭けに出た。
  • 当時日本ではボーリング熱が冷めた後で、ボーリング跡地の利用が課題になっていた。
  • そこに光線銃でできるクレー射撃の遊技場を作ろうというのが山内の発想であった。
  • 山内は早速横井に開発指令を出すと、苦心の末玩具は完成した。
  • クレー射撃経験者にも好評で、ボーリング場経営者から注文が殺到した。
  • ところが山内を突然不幸が襲った。
  • 1973年のオイルショックによって、受注が止まってしまったのだ。
  • 従来の玩具とは異なりボーリング場に設備を導入するレーザークレーの在庫が積みあがったことで、再び任天堂は危機に陥ってしまった。

50歳頃 もう一人のキーマン宮本茂を採用

  • 横井が入社してから12年が経った1977年、山内はもう一人のキーマン、宮本茂を採用している。
  • 宮本は金沢市立美術工芸大学を一年留年しながら卒業したが、会社勤めはしたくないという理由で定職についていなかった。
  • 見かねた宮本の父親は、山内と知り合いだった縁で、山内が宮本を面接することになった。
  • 当時の任天堂の経営からして技術者を必要としており、「絵描き」は不要だったが、面接をして宮本から何かを感じ取った山内は、宮本を採用した。
  • 入社当時の宮本に絵描きの仕事があるはずもなく、企画部に配属され、暇を持て余す時期を過ごした。
  • このあたりは横井と同じで、任天堂という会社の独特な一面だと言える。

53歳頃 「ゲーム&ウォッチ」が大ヒット

  • 1980年、任天堂はヒットに恵まれず、苦境に立っていた。
  • 当時開発課長だった横井も、レーザークレーの損害を取り戻すヒットを作れておらず、社内での立場が弱くなっていたと言われる。
  • ある日、山内専属の運転手が休み、社内で運転手を探していたところ、横井に連絡が来て白羽の矢が立った。
  • 横井は開発課長であるプライドが多少気を咎めたが、山内を乗せて大阪まで車を走らせた。
  • 車内では「小さな電卓のようなゲーム機を作ったら面白いと思う」という話を退屈しのぎにした。
  • 山内はその場では静かに聞いているだけだったが、帰社すると早速その開発を指令した。
  • 開発された商品は「ゲーム&ウォッチ」と名付けられ、発売されると大ヒットした。
  • 持ち運びできるサイズの電子ゲーム機に、単純で親しみやすいソフトが1つ搭載され、時計機能という実用性も併せ持つことが消費者の心を掴んだ。
  • ゲーム&ウォッチは任天堂に大きな収益をもたらし、その後のファミコンの開発原資も稼いだ。

53歳頃 北米にNOAを設立するもいきなり大失敗

  • 勢いに乗った山内は、長女の夫である、当時丸紅に勤めていた荒川を抜擢し、ニューヨークに任天堂ノースアメリカ(NOA)を設立した。
  • 任天堂が開発したアーケードゲームを販売するのが当面の仕事だった。
  • 荒川は米国で有望なゲームを調査すると、いきなり持っていた資金の大半を使い、「レーダースコープ」というゲーム3000台を発注した。
  • しかし、発注から米国にゲームが納品されるまでの数か月間で、既にレーダースコープは時代遅れの商品となっており、全く売れなかった。
  • いきなり資金をすべて使い果たし、2000台もの在庫が積みあがったNOAは苦境に立たされた。

54歳頃 NOAの失敗の尻ぬぐいから、ドンキーコングが誕生し大ヒット

  • 2000台の機器をどうするかがNOAの課題となったが、ゲーム&ウォッチの大ヒットで、社内はそれどころではなかった。
  • そこで白羽の矢が立ったのが、宮本と、その監督者としての横井だった。
  • 当時任天堂は米国アニメ「ポパイ」の版権を交渉中だったため、宮本と横井は、ポパイが落ちてくる樽をよけながら、上にいるオリーブとブルートの元にたどり着くというゲームだった。
  • ところが、版権元であるキングフィーチャーズとの契約交渉が破談になったことから、宮本は自分でポパイ、オリーブ、ブルートの代わりとなるキャラクターを考案する。
  • それがマリオ、ピーチ姫、キングコングとなった。
  • 1981年、完成したドンキーコングのゲームをNOAに送ると、爆発的に売れた。
  • NOAに溜まっていた在庫の2000台があっという間に売れ、最終的に6万台以上の販売を記録した。
  • これによってNOAが救われただけでなく、ドンキーコングやマリオといったコンテンツが誕生し、その後の任天堂を支える宮本の才能が開花したと言われる。

56歳頃 社運を賭けファミコンを開発し大ヒット

  • 山内は1981年に宮本を開発2課の課長に抜擢すると、ファミコンの制作を命じた。
  • 他社がすでに同様のゲーム機の開発を進める中で最後発だったが、ソフトの品質が高ければ成功すると信じた山内は、ゲーム&ウォッチなどで稼いだ利益の大半を注ぎ込み、ファミコンを開発させた。
  • そうして1983年、他社が3~5万円の価格帯でゲーム機を販売する中、任天堂はそれよりも大幅に安い14800円でファミコンを販売。
  • 消費者が楽しむソフトの品質を保つために自社で「スーパーマリオ」等の優れたソフトを開発した結果、ファミコンは爆発的なヒット商品となった。

62歳頃 開発中止のリスクを乗り越えゲームボーイを発売し大ヒット

  • 山内はその後ゲームボーイを横井に開発させ、これまた大ヒットさせている。
  • しかしゲームボーイの開発は苦労の連続であった。
  • 横井が山内にゲームボーイの試作品を持って行ったところ、画面の映りが悪いという理由で山内は横井に開発を中止するように命じた。
  • 既に液晶を生産するシャープに量産の合意を貰い、40億円もの工場投資をしてもらっていた横井は、「人生最大の失敗」「自殺するほど悩んだ」と振り返っているが、苦心の末にこの問題を解決し、発売にこぎつけた。
  • 山内の指摘と横井の努力により利用者の視認性が向上したゲームボーイは大ヒット商品となった。
  • 「あるとき社長が試作品を見たら、「なんだこれ。見えへんやないか」と。確かに真正面から見ると画面がよく見えないのですね。社長は「どうすんや、これ。こんな見えへんの売れへんぞ。もう、売るのやめや」と。がく然となりました」 – 横井軍平の回想-
    (「任天堂 “驚き”を生む方程式」井上理、2009年、日本経済新聞出版社)

63歳頃 スーパーファミコンを発売し大ヒットし

  • 山内はファミコンが成功を収めていた早い段階で、開発2課に対して後継機の開発を命じていた。
  • 1990年、任天堂はスーパーファミコンを発売した。
  • PCエンジン、メガドライブなどの競合機種も発売されたが、ブランド力とソフトの品質で圧倒的に勝るスーパーファミコンの独壇場となった。
  • 宮本を中心に開発した「スーパーマリオワールド」等のソフトも、大ヒット作となった。

69歳頃 NINTENDO 64を発売するも、商業的な大成功とはならず

  • 山内はスーパーファミコンの後継機として1996年にNINTENDO64を発売したが、競合のプレイステーションから1年以上遅れた発売となり、競争に出遅れてしまっていた。
  • また、任天堂の強みだったソフトが弱体化したのもこの頃だった。
  • サードパーティーに対しSCEが安い開発環境を提供したことで、多くのソフト会社がSCE陣営に流れてしまった。
  • 結果として、NINTENDO64は500万台以上販売したものの、競合のプレイステーションに倍以上の差をつけられてしまった。

74歳頃 成長に陰りが見える中で引退し、経営体制を一新

  • 2002年、山内はHAL研究所から引き抜いてきた岩田聡を後任とし、第一線を退いた。
  • それに加えてソフトの宮本、ハードの竹田、その他3人を併せた集団経営体制へ移行させた。
  • 山内は成長に陰りが見える中で山内というカリスマが率いるワンマン経営に限界を感じ、任天堂を集団経営体制に移行させたと言われている。
  • その後任天堂は「DS」「Wii」をヒットさせ、成長を続けている。
  • 山内の最後の判断も、奏功することとなった。