アニエスベー、アフタヌーンティー、スターバックスをはじめとして衣食住にかかわる様々なヒットブランドを次々にプロデュースし「半歩先のライフスタイル」を日本に導入し続けた鈴木陸三。彼がどのような人生を歩んできたのか、人生の岐路を振り返る。
幼少時代
0歳 誕生
- 1943年3月10日、神奈川県の逗子市で生まれた。
- 生家は現在も続く食料品スーパーのスズキヤを営んでいた。
少年時代 のびのびと育ち、友達が多かった少年時代
- 100年以上の歴史を持つ商店「スズキヤ」の三男坊だった鈴木は後を継ぐ必要がなく、親から「何でも好きなことをやりなさい」という調子で育てられた。
- のびのびと育った鈴木は、「小・中通してそれほど勉強はできなかった」と述懐しているが、コミュニケーションが得意で、誰に対しても物おじせずに接することができ、友達が多い少年だった。
高校時代 ヨットを通じて石原慎太郎の知己を得る
- 鈴木は地元の逗子開成高校に進学すると、ヨットで遊ぶようになった。
- すると、そこに来ていた10歳年上の石原慎太郎と友人になり、一緒に遊ぶようになった。
18歳頃 明治学院大学文学部入学、その後5年かかって卒業
- 明治学院大学に入学した鈴木だったが、大学時代もヨットなどに明け暮れ殆ど学校に行かず、結局5年かかってようやく卒業した。
社会人・欧州留学時代
23歳頃 明治通商株式会社に入社、生涯でたった1年のサラリーマン生活
- 1966年、大学を卒業した鈴木は、ヨットを通じて学んだ英語を活かすことができ、貿易も覚えられるという理由で明治通商株式会社に入社した。
- 1年ほど勤めた頃、参議院議員選挙に出馬予定だった石原慎太郎に請われ、石原の鞄持ちをするために退社した。
- 鈴木がサラリーマンをやったのは生涯でこのたった1年間だけだった。
24歳頃 石原慎太郎の鞄持ちとして全国を回る
- 石原慎太郎の鞄持ちとなった鈴木は、石原と共に全国を回った。石原の演説に対するアドバイスをしたり、政財界の著名人と会ったりしていた。
- 1968年に石原が当選すると、鞄持ちをやめ、嘱託で1年間レストランのオープニングスタッフをやって留学資金を貯めた。
26歳頃 ロンドンに留学するも半年で退学し、欧州を3年間旅する
- 留学資金を貯めた鈴木は、東南アジア、中東を回りながら、最短2日でつくロンドンへ4か月かけて到着した。
- 鈴木はいったんロンドンの大学に入学するも、学業についていけず半年で退学してしまった。
- しかしその後も欧州で友人を作りながら、建築、歴史、レストラン、ホテルなどライフスタイル全般をくまなく体験し、観察眼を養っていった。
「ヨーロッパを放浪して、普通の生活の普通の時間をちょっと楽しくしたいと思ったんだよ。普通の生活をよくしないと生活全般のクオリティーは上がらないよね。何気ないけど、ちょっとワクっとするデザイン。うっかり壊してしまってもまた買えるプライスレンジ。そういうリーズナブルなものを提供したかったんだ」
(「日本スターバックス物語」梅本龍夫、2015年、早川書房)
「自分が好きな事ができるまで仕事しないと決めて、いろいろ見て回った。これがある意味大きかった。そこで多くの人脈が作れた。それは何かについてバーティカルにということではなく、フラットなネットワークだ」
(「サザビーがイケてるブランドと組めるワケ 創業者が語る「有力ブランドを射止める秘訣」」東洋経済新報社、2015/2/22)
サザビー設立後
29歳頃 株式会社サザビーを設立、家具輸入販売を開始
- 1972年4月、帰国した鈴木は10人程度の仲間と共に株式会社サザビーを設立した。
- ロンドンでの経験を通じて、鈴木は質の高い中古家具を安く買い入れることが可能だと発見していた。
- そこで、その家具の輸入ビジネスを始める。初めは、知己のアパレル関係者が持つ販売店などに売り込み、徐々に顧客を増やしていった。
- 創業当時、明確なビジョンがあったわけではなく、鈴木は1970年代のサザビーを「模索の時代」と呼んでいる。
「ロンドンを拠点にヨーロッパで遊学して29歳で日本に帰ってきたけど、海外に行ったからといって何か方向性が決まったわけでなくてね。自分のわくわくすることで飯を食べたいけど、それが何かまだわからなかった。だから僕は会社に入らず起業するしかなかったんだよね」
(「「ベンチャーは個の持つ指向性が柱になる」サザビーリーグ創業者・鈴木陸三が起業家たちに伝えたいこと」HUFFPOST, 2016年1月17日)
33歳頃 熊谷喜八を料理長に招き、青山に飲食店「シルバースプーン」を開店
- 家具のプロではなかった鈴木は、家具輸入ビジネスを深く掘り下げていくことより、輸入家具を店舗内装に活用する形で、飲食店業に進出した。
- パリで修業を終えた料理人の熊谷喜八をシェフとして招き、青山にレストラン「シルバースプーン」を開店させると、川久保玲やヨウジヤマモトのファッション業界の有名人や芸能人が集まる人気店となった。
「20代にヨーロッパで現地の生活を知って、起業してからは買い付けのための渡航も何度も繰り返し、その度にいろんなホテルにも泊まって。自分が見てきた世界と生活、その中で作られた価値観や志向があってそれに応える自分が行きたいレストランを作った。結果的に当時のレストランの常識では考えられない空間や料理を提供したことが反響を呼び、川久保さん(コム デ ギャルソン デザイナー)、ヨウジさん(ヨウジヤマモト デザイナー)をはじめ、ファッション業界の打ち上げから芸能人、モデル、来日したハリウッドスターまでが訪れるお店になりましたね。」
(「「ベンチャーは個の持つ指向性が柱になる」サザビーリーグ創業者・鈴木陸三が起業家たちに伝えたいこと」HUFFPOST, 2016年1月17日)
38歳頃 アフタヌーンティー1号店を渋谷パルコに開店
- 1981年9月、渋谷パルコを作ったばかりの西武の増田通二から打診を受け、「敷金なし、店装費用なし」という条件でパルコ3号館に出店した。
- 破格の条件だったが、西武の狙いはカルチャーの情報発信であり、それに値するだけの価値が当時のサザビーにはあった。
- 西武側の希望はサザビーの代名詞であったパイン材の家具を売ることであったが、渋谷に出店しても消費者が買うとは考えなかった鈴木は、生活雑貨を販売することにした。
- また、生活雑貨を販売する際に、それを使用している場所があったほうがいいと考え、軽飲食も提供することにした。
- これがアフタヌーンティー1号店であった。
「 1981年、「アフタヌーンティー」の1号店を作った当時、食器などの生活雑貨は高いブランド品と安いものの二つだけで、ちょっと小じゃれた、手が届く値段のモノがなかった。生活に潤いをもたらすデザインと機能があって、それでいて手の届く値段のモノ、これを売る店を作ろうと思った」
(「勝ち抜く方法を考えるー鈴木陸三氏語る」繊研新聞 2014年1月6日)
41歳頃 アニエスベーの1号店を青山に開店
- アフタヌーンティーも人気を博し、衣食住の「食」「住」で成功を収めていた鈴木は、ここでビジネスを「衣」の方向へ横に広げる。それがフランスの気鋭のブランドアニエスベーの取り扱い開始だった。
- 知人の紹介を介してパりでアニエス・トゥルブレと会った鈴木は、すぐに意気投合した。
- アニエスは当時まだ隆盛にあったDCブランドへのアンチテーゼとして、シンプルな中にセンスが光るファッションを体現していた。
- 「半歩先のライフスタイル」を常に模索していた鈴木に、アニエスのセンスは刺さった。
- 1983年、サザビーはアニエスの会社であるC.M.C S.A.と「50対50」という出資比率で合弁会社を設立すると、1984年にアニエスベーの1号店を青山に設立した。
- 「50対50」という、一般的には珍しい出資比率は、以後のサザビーの提携方針として引き継がれていくことになった。
「もううるさいことは言わない、とにかくやろうということになり、奇跡にフィフティフィフティでジョイントベンチャーをつくることができました。弁護士を呼んで契約書を交わすというよりは、お互いの信頼に基づく素朴な契約です」
(「イノベーターズ・ライフ#12 サザビーリーグ会長 鈴木陸三」 2015年11月25日 NewsPicks )
43歳頃 キハチアンドエス設立
- 1986年、鈴木はサザビーと熊谷喜八と共同出資でキハチアンドエスを設立し、翌年に青山にKIHACHIを開店した。
- KIHACHIは新しいスタイルを持ったレストラン、カフェ、スイーツなどで成功し、今日も人気を博している。
拡大期
49歳頃 スターバックスとの協業検討を開始
- 1992年11月、実兄の角田雄二が当時まだ小さなコーヒーチェーンだったスターバックスの味とセンスの良さに気が付き、鈴木に相談。
- 自らも渡米しスターバックスのサービスを体感した鈴木は了承し、サザビーとして、スターバックスの日本展開を支援することを決意した。
- 1993年、鈴木は当時のスターバックス社長であったハワード・シュルツとトップ会談し、意気投合したことで合弁に向けた交渉がスタートした。
- スターバックスはそれ以前にホテルマリオネットグループと組んで成田に出店していたものの、失敗しており、折しも日本市場を熟知しているパートナーを探していた。
- シンクタンクから上がってくる協業先候補リストを見てもピンとこなかったシュルツだったが、鈴木と角田の二人に会い、サザビーとの協業に好感触を持った。
「角田雄二と鈴木陸三。この兄弟は、シュルツがそれまで会った日本人ビジネスマンたちとは風貌も雰囲気も全然違っていました。ネクタイを締めるのが当たり前だった時代に、カジュアルな服を粋に着こなしていました。陸三さんがはじけるような陽のオーラの人だとすると、雄二さんはもう少し抑制された雰囲気ですが、気さくで人懐っこいところはそっくりです。シュルツはふたりにたちまちほれ込みました」
(「日本スターバックス物語」梅本龍夫、2015年、早川書房)
52歳頃 サザビーらしい「50対50」の対等な出資比率でスターバックスジャパン設立
- サザビー、スターバックス双方のトップ同士では合弁設立を同意していたものの、既にジャスダックに上場していたスターバックスは株主への説明責任が伴っていたため、アニエスベーよりも細かく、大変な交渉が必要だった。
- それでも両社が根気よくひざ詰めで議論を継続した結果、1995年、「50対50」というサザビーらしい出資比率での合弁設立にこぎつけた。
- 1996年にスターバックスジャパンの1号店を銀座松屋通りに開店した。
- 北米以外の新市場における初めての店舗だった。
54歳頃 1997年、サザビーがジャスダックへ上場
- 生家がスズキヤを営んでいた鈴木は、商売の感覚を持ち合わせており、急激な成長を追い求めず無理のない経営をしていた。
- そのためサザビーは創業以来、一度も赤字のない優良企業だった。
- 実際、家具の輸入販売も、アフタヌーンティーも、ニッチ市場を切り開いてきており、利益は出していたが大きな市場ではなかった。
- しかしスターバックスと組んだことで、1000店舗という目標を共有したサザビーは、その実現に向けて上場した。
- ところがフタを開けてみれば、上場初値は公募価格の3760円を下回る3000円だった。
- 通常公募価格を上回る初値が付く株式市場において、これはサザビー・ショックと呼ばれ話題となった。
- それまで鈴木のカリスマ的なセンスで市場を開いてきたサザビーが、上場によって「成長の踊り場」に立っているとみなされての市場の反応だった。
「第二創業期」以降
62歳頃 第2創業、社名をサザビーリーグに変更
- スターバックスによる事業の急激な拡大、上場を経て、サザビーは大企業病に陥っていた。それまで鈴木や、その薫陶を受けた社員が情熱とセンスで市場を切り開いていたが、上場を契機に組織や業務プロセスをしっかりしたものに変えた結果、自由闊達な企業文化が失われつつあった。
- そこで鈴木は第2創業を掲げ、「SAZABY LEAGUE」をグループアイデンティティーにすると宣言。
- そこで鈴木は第2創業を掲げ、「SAZABY LEAGUE」をグループアイデンティティーにすると宣言。
- 2005年に社名をサザビーリーグに変更した。
- リーグは、志を同じくする仲間が「スターなきスター集団」を形成する場になるという願いを込めて作られた。
68歳頃 MBOによりサザビーリーグの上場廃止
- 2011年3月、サザビーリーグはMBOによって上場を廃止した。
- 株主への説明責任などによって、経営判断が遅れてしまうことや、新規事業をゆっくり育てようと思っても、短期的なリターンを求められるなどのデメリットを考慮してのものだったと思われる。
74歳頃 サザビーリーグの取締役を退任、経営支援に移行
- 2018年6月、鈴木三はサザビーリーグの取締役を退任し、創業者として経営支援を行うこととなった。